Japanese  English
CONTENTS
10月19日(月) おわりに 〜今回の旅で学んだことと感謝の気持ち〜

◀最初から読む

最後まで走りきったメンバー全員。

クライスラーのサポートカーとソーラーシステムを搭載したトレーラーは完璧な活躍ぶりでした。
スポンサー各社には感謝の気持ちでいっぱいです。

 ほぼ2ヶ月ぶりの帰国。空港でみんなと別れた風間隊長は東京の自宅へ戻りました。狭くごちゃごちゃした都内の道路は、広大な大陸を走ってきた隊長から見れば自転車にとって不向きなように映ったようです。

 オーストラリアは大きく、厳しい自然に恵まれた国でした。野生で生きる動物とその死骸を見ては実感を深めたものです。そしてそこで生きる人々にとっても自然を相手に生きることは、毎日が真剣勝負であると5150kmを自転車で走り抜ける中でわかりました。

 今回の企画ではメンバー全員が障害を抱える者同士として集結し、目標に向かって走りました。日程の間ずっと、障害を乗り越え目標に向かって頑張ることの意味、そして何より「障害」とはいったい何なのだろうか? と同行者のドクターを交えて全員で考え続けたのです。

 その結論のひとつは、大自然の中にあって人間は「元気」でいることが最も素晴らしいということです。障害者だからこそ人生にポジティブに取り組む姿勢を大切にしたい、とも。またそれを支える医療環境は常に最善のシステムの構築を目指してほしいのです。

 最後にこの旅を支えてくださったスポンサーのみなさま、そして「運動器の10年・日本委員会」の先生方、さらに現地に駆けつけて一緒にペダルを漕いでいただいた5人の先生方、そしてこの旅をサポートしてくださったすべての方に感謝します。ありがとうございました。

 今後、2010年2〜3月に障害者100人による日本縦断駅伝・国内キャンペーンを予定しています。また6月からは南米、北米、グリーンランドを越えて「運動器の10年」世界大会の行われるスウェーデン本部にゴールインし、4年を費やした世界1周キャンペーン活動を完結させる予定です。

 

 

10月16日(金) ついにシドニーに到着。感動のゴール

感動のゴール・シーン。有名なオペラ・ハウスをバックに記念撮影。みんな力を合わせてがんばりました。

 気温は4度。ゴールの朝は晴天ですがだいぶ冷え込みました。カトゥーンバの駅裏にある安宿を8時30分に出発。この日の走行予定距離は102km。

 標高1000mから一気に下るので、かなりの速さで進みます。交通量は多く、後ろから迫ってくる大型トラックなどに注意しながら走らなければなりません。

 午後になって気温は20度を上回りました。ゴールの日に久しぶりの快晴が重なるなんて幸運です。2時30分、前方にシドニーの高層ビル群が見えてきました。車道は東京や大阪と変わらないほど混みはじめました。目指すのはシドニー湾に面するハーバー・ブリッジのたもとにある公園です。

 「よく走ってきたな」「うん」風間隊長にサキが嬉しそうに応えます。午後4時にとうとう最終目的地である「シドニー・ハーバー・ブリッジ」に着きました。ナラボー平原の原野からここまで、全走行距離5151.3km。パースを出発して毎日走り53日目のことです。マサもテツもサキも竹中先生もみんな晴れ晴れとした顔をして本当に嬉しそうでした。

次へ▶

10月15日(木) 日光いろは坂のようなワインディング

ものすごい勾配の連続を上り続けるサキとテツ。坂の途中でブルーマウンテン市に入り、看板前で記念撮影。
パースを出て5000km走ったことをメーターが告げていました。

 ゴールまで197km。残り2日となったこの旅を思い、感傷に耽る風間隊長をサキがたしなめます。「気を抜くのはゴールしてからだよ!」

 我々は今回「運動器の10年」という世界キャンペーンの国際親善大使としてこのチャレンジを続けてきました。リーフレットやバッヂをあらゆる出会いの度に配布し、その精神を伝えたのです。そして何人もの人たちから「頑張って」と声援をもらい、ときには10〜50ドルの寄付までいただきました。

 身体の障害を克服して頑張ることや、社会をより良い方向にもっていこうとする社会貢献活動の姿勢はこの国の人たちにストレートに響いたようです。本当にひたすら感謝するしかありません。

 ブルーマウンテンの町、カトゥーンバに続く道は次第に高度を上げ、まるで日光いろは坂のように曲がりくねりながら、ついに1043mのビクトリア峠に達しました。トリップメーターの積算計がついに5000kmを越え、2号車ははじめてチェーンを交換しました。ちなみにパンク回数は3台合計で9回です。

 この日の走行距離98km。いよいよ明日、待望のシドニーに着きます。

次へ▶

10月14日(水) “戦没者の町”を後に

弾丸男(竹中先生)が重さを利してテツを抜き去った瞬間です。そして周囲の牧草地では出荷が行われていました。

 前日に見学した旧日本兵の捕虜収容所跡とそれにまつわる悲劇的な話(収容所から脱走した378人の日本兵と、その内231人が死亡したこと等)を思い出し、鎮魂の念を心に抱きながらカウラを後にしました。

 雨が降る中、ゆるやかなカーブが連続する道を進みます。徐々に上がってゆく高度。

 そして元気になったテツが再び戦列に戻りました。「鉛の弾丸男」竹中先生もここにきて昔の自転車オタク少年だった頃の勘を取り戻したようで力強い走りを見せます。勾配10%の下り坂で最高速度75.6km/hを出したと言って鼻高々。マサもサキも負けずに元気いっぱい走りました。

 午後になって雨もあががり、山に晴れ間がのぞきます。標高もついに670mになりました。そして国内で最もカーレースが盛んな街、バザースト(人口3万7000人)に到着です。

次へ▶

10月13日(火) ふたつの記憶と日本人戦没者墓地

旧ガールズ・ホームの建物が残っていました。オーストラリア人にとって悲しい記憶の残る場所です。

 宿泊地のクータマンドラは人口4000人のごく一般的なオーストラリアの田舎町です。町の自慢は約70年前に活躍したドン・ブラッドマンというクリケット選手。驚異的な成績をあげて当時の貧しかったオーストラリア社会に希望をあたえた、という話を町の人が熱く語っていましたが、もちろんメンバーの中で知っていた人はいません(……)。

 そのクータマンドラを後にして125km先にあるカウラを目指します。途中で「クータマンドラ・ガールズ・ホーム」の校舎を見学しました。これはオーストラリア政府がアボリジニーに対して行った子供に対する保護(隔離)政策の施設です。映画「裸足の1500マイル」に描かれ日本でも上映されましたが、教育と保護を名目に行った悲しい強制連行の記憶は、今も多方面に波紋を投げかけています。

 いよいよ道は最後のハイライトとなるブルーマウンテン(標高1000m)に向けて上りはじめました。アップダウンではなくアップアップを繰り返し、強風や小雨に当たりながら午後3時30分にカウラに到着。ここは日本人にとってたいへんゆかりのある場所です。本日の走行距離は126.4kmでした。

 

旧ガールズ・ホームの
建物が残っていました。
オーストラリア人にとって
悲しい記憶の残る場所です。

次へ▶

10月12日(月) 鉄(テツ)人もカゼには勝てません

この日の宿泊地、クータマンドラ。ひっそりしています。
熱でダウンしたテツ。いつもなら怪物的な体力でカゼなどはね除けるのですが……。

 朝から雨が降っています。テツが前日から調子を崩して回復していません。いつも誰より元気のいいテツですが、このときはクシャミと鼻水で冴えない顔つきです。大事をとってこの日はローテーションから外れました。

 テツは現在38歳。青森の片田舎で牛の繁殖業と雑貨店を営む家庭に生まれ、厳しい父親のもとで小学生時代からよく家の手伝いをしたそうです。大学生時代に北海道でバイクに乗って右カーブで転倒したときに11m離れた道路標識に激突して右足を失いました。以来、左足だけで日常を生きています。

 ‘98年のソルトレーク、’02年の長野とオリンピック2大会に連続してアルペンスキー日本代表として出場しました。それだけでなく世界選手権で入賞し、さらに抜群の体力と運動センスを生かしてゴルフの世界選手権にも出場するマルチプレイヤーぶりなのです。現在も健常者に混ざって全日本スキー選手権大会に出場し続ける脅威のスポーツマンといえるでしょう。

 オーストラリアのどこを走っても、すれ違う人々の誰の目をも驚かせ、勇気を与え、感動させたテツが、このときは車中でおとなしく眠ってばかり。

 92kmを走りきり、ひっそりとしたクータマンドラに午後3時に着きました。総走行距離は4712km。シドニーまではついに残り約500kmです。

次へ▶

10月11日(日) アウトドアで美味フランス料理

パルミジャーノ・サラダ
プロバンス風パスタ・サラダ
ジェリーと十八番のココナッツケーキ。
アウトドアの食卓はナゼか気分が盛り上がる。

 朝から雨が降り、珍しくテツが熱を出した。この日は軍の町(メインストリートに昔の戦車と戦闘機が展示してある)ウォガウォガで休暇。

 朝食前にチェリーがパンとバナナとチーズを持って冗談を言いながらキャビンにやってきました。フランスで4軒のレストランを経営する“プロ”である彼のおかげで、我々の食生活は毎日充実しているのです。

 現在65歳のチェリーはアフリカのモロッコ生まれ。11歳のときに家族でフランスのマルセイユに移住。冒険旅行が大好きで、アフリカ全域に及ぶ車の旅は走行距離100万km以上。パリダカには14回出場していて、ポルシェとプジョーのワークスチームから出たこともありました。

 旅慣れた彼の作る食事は多彩です。この日も「プロバンス風パスタ・サラダ」と「パルミジャーノ・サラダ」と2種類のサラダ。そこにパンとコーヒー、紅茶を添え、デザートも忘れません。ココナッツケーキは定番だし好評です。すべて材料を吟味した本格的な料理。毎日激しい運動はするものの、美味しすぎて食べ過ぎるのが困ります。

次へ▶

10月10日(土) コンバインが生まれた町

快晴の空の下、のんびりした景色の中を走り抜けます。コンバインがこの町のアイデンティティ。世の中にはいろいろな町があるのだな、と感心しました。

 この日は標高200〜300mの高原の道を130km進みます。空は素晴らしく晴れわたり、景色も緩やかなアップダウンを繰り返す牧歌的なもの。ただし交通量は以前とは比べものにならないほど増えました。シドニーとメルボルンを結ぶ流線型の特急列車もよく見かけます。

 高速道路を車で飛ばせば5〜6時間でシドニーに着くという地点まで来ていますが、自転車ではまだ1週間はかかるでしょう。ここまできたら焦らず無事完走することを考えるしかありません。

 昼に寄った「HENTY」という小さな町は、売店のオジサンの話によるとコンバイン(穀物を収穫する機械)生誕の土地らしいのです。そういえば町の入口にコンバインの絵が書いてありました。

 午後3時30分に目的地のウォガウォガに到着です。走行距離は148.9kmでした。

次へ▶

10月9日(金) こんどはグレートな「山の道」

ユーカリの並木が続くグレート・アルペン・ロード。ビーチワース・ベーカリーはお客さんで大混雑。さすが人気店です。

 オーストラリアでどこにでもいる鳥といえば鳩に似た「ガラー」、白黒ツートンの「マグパイ」、そしてギャーギャーと鳴き声がケタマしい「コカツー」の3種類。山間部に入ってコカツーが集団で飛んでいるのをよく見ました。

 進む道は有名なスキー場Mt.バファロー方面につながる「グレート・アルペン・ロード」。グレートな「海の道」の次は「山の道」のようです。

 Beach Worthという小さな町でオーストラリア中が注目しているというパン屋さんに寄りました。20年前に3人ではじめたという「ビーチワース・ベーカリー」は、品物の良さもあって年間売り上げ5億円の人気店になったのです。今や従業員も75人に増え、お店も2軒に増えました。創業者は「パンを売るのではなく街を売れ」という徹底した地域のサーバー・カスタマーとして評価されているようです。

 夕方、4つ目の州となるニューサウス・ウェールズに入りました。この日の走行距離は137.2km。

次へ▶

10月8日(木) 下りの“弾丸男”

救急隊員のバッグに入っていた薬の多さにビックリする一同。竹中先生の下り坂のスピードは驚異的です。だれもついていけません。

 朝、隣の部屋に泊まっていた地元の救急隊員が出かけようとしていたので、我々の「運動器の10年・世界キャンペーン」の話をしたら、非常に興味を持ってもらい会話が弾みました。彼らの日頃やっている救急活動の内容もいろいろと聞けたのです。

 彼らの救急業務は日本のそれとかなり違って、現場での初期治療が日本なら医師が行う範囲まで及んでいるということ。竹中先生によると迅速な現場の責任を重視する文化と、それを背景とした法律の違いがあるというのです。「持っている薬の数がスゴい。静脈注射まで責任持って対応している点が日本とはまったく違う」

 ブルー・マウンテンに向かって北上する内陸ルートは、想像以上に山ばかりでした。そして地図では「湖」となっていた場所が実際には「涸れ野原」だったのです。でもモーテルの看板は「LAKE INN」となっていて、なかなか違和感がありました。

 一方、2日目の竹中先生は好調な様子。上り坂ではゆっくりなのに、下り坂では持ち前の体重を生かして、手がつけられないほど速く走るのです。そこでついたあだ名が「鉛の弾丸男」(このときあだ名のことは本人は知りませんでした)。

 この日の走行距離117km。トータルで4363km。シドニーまであと少しです。

次へ▶

10月7日(水) 自然に接して生きるということ

出発直後のメルボルン郊外は通勤ラッシュで大渋滞。坂道には慣れているつもりでしたがハードでした。
生活用品の配給所で山火事当時のくわしい話を聞きました。

 

 メルボルンを出発しました。いよいよシドニーまで残り1000kmになりました。この日の空は南風が強く荒れ模様。

 伴走ドクターはこの企画のために日本で密かにトレーニングを積んできたという竹中先生(48歳)。学生時代には四輪ラリーの経験やオフロードバイクのエンデューロで優勝したこともある(昔の)強者です。

 ハイウエイを通行できない自転車の我々は海沿いの幹線道路は避け、内陸を北上してシドニー西側の「ブルー・マウンテン」から市内を目指す計画。

 この日の山場は標高900mのブラック・スパーと呼ばれる峠越え。これまで経験してきた数々の難所を上回るキツさと聞いて、覚悟して挑みました。そして喘ぎながら峠はなんとか越したものの、あまりの寒さに驚きが隠せません。地元の人の話では1週間前に70cmの大雪が積もったらしいのです。

 厳しい気象という意味ではメリーズビルという村の場合、夏は46度、冬はマイナス16度くらいになるそうで、山火事も多いため現在の村の人口は100人以下になってしまいました。美しい自然の中で生きていくには大きなリスクも背負わなければならないようです。

 午後6時、138kmを走ってアレキサンドラの村に着きました。

次へ▶

10月6日(火) すごい病院を見学しました

ICUのスタッフと話す松下教授たち。素晴らしい施設とスタッフに圧倒されました。最後に正面玄関で全員そろって記念撮影。

 ここメルボルンでアデレードから1100kmを共に走ってくれた生越章先生が、東京からやってきた竹中信之先生(帝京大学付属病院・イリザロフ法専門医・48歳)にバトンタッチします。

 メルボルンに滞在するこの日は2人の先生と共にThe Alfred Hospital(ザ・アルフレッド・ホスピタル)というオーストラリア唯一のトラウマ(外傷)専門の病院を訪ねました。

 そこは1階にコーヒーショップをはじめ本屋、花屋、洋服屋などの軒が連なっていて、まるでショッピングセンターのよう。2階のICU病棟から道路に向かって大きくせり出したヘリポートには、5機のヘリコプターが待機。完全24時間態勢で300人の専任ナースが配属し、45床のベッドを有するICU。うらやましいほど完璧なシステムです。

 訪問後に生越先生は後ろ髪を引かれる思いで帰国されました。以下は先生が残したメッセージの一部です。

 「あっという間の10日間でした。(中略)忘れられない思い出でいっぱいです。アルフレッド外傷センターでは理想的な救急システムに衝撃を受け、日本にも同様なものが必要であることを痛感しました。しかし何より感動したのは、障害を障害として素直に受け止めながら、我々医師の想像を超えるパフォーマンスを見せてくれたみんなの走りです。(中略)医師として障害が少しでも軽くすみ、かつ十分回復できるような医療と医学の研鑽を続けていきたい(後略)」

次へ▶

10月5日(月) 複雑な気分とうれしい再会

朝日を受けてみんなで気分良くフェリー乗り場へ急ぎます。まさに大都市、メルボルンに着きました。

 朝9時にフェリーボートでフィリップ湾を渡るために早朝から乗り場へ向けて走ります。この日の目的地、メルボルンでは久しぶりに再会する松下教授、そして生越先生とバトンタッチする竹中信之先生の2人と落ち合うのです。

 オーストラリア第2の都市へ向けて走りだすと、これまでとは比較にならないほどの交通量となり自然と気が引き締まります。そして朝の冷気を受けて走る気分はまた格別。総走行距離も4000kmを越えました。

 乗り場までの52kmを2時間で走り(かなりキツい)、なんとか乗船時刻に間に合いました。今まで見るだけだった海の上にいる気分は上々です。

 約50分で対岸にあるソレントの街に到着。ここからメルボルンまで約90km。ランチはマックでもケンタッキーフライドチキンでもなんでも選べる大都会への道。なんでもあるのが嬉しいような悲しいような複雑な気分の一同でした。

 午後2時40分に無事メルボルンに到着し、松下教授と竹中先生に再会しました。待望のおみやげは柿ピーひとつ。

次へ▶

10月4日(日) メルボルンまで、あと少し

「Surf Coast」と呼ばれるサーファーたちの海はかなり盛況でした。どこから見ても美しいグレート・オーシャン。壮大です。

 「自転車にとっては最高の気分ですね」この日と翌日が最後の走りとなる生越先生が言うように、晴れわたる空の下、気温も温かくさらに追い風という抜群のコンディション。右手に海を眺めながらグレート・オーシャン・ロードを走ります。この道は1919年に第一次世界大戦から帰国した軍人によって市民の募金で開通させたもの。総延長250kmの道のりは、その景観の素晴らしさからオーストラリアを代表する観光資源です。

 青い海を見ながら走る気分は格別です。内陸を走りに走って海に出たときに込み上げてくる歓喜のような感情は不思議なもの。山育ちを自称する風間隊長にとっても例外ではありません。「きっと、それは人が海から来たから?」そんなシンプルで純粋な発想になるのは車上の旅人だから……でしょう。

 この日は混み合うサーファーたちのメッカを通過しつつ、海沿いのワインディング・ロードを90km走りました。「MELBOURNE 103km」の看板が見えました。オーストラリア第2の都市までもう少しです。

次へ▶

10月3日(土) 海沿いの町で休みとなれば

美しいアポロベイの町。海沿いのおだやかな景色です。身体にムチ打って釣りに興じた風間隊長は見事に太刀魚を2匹ゲットしました。

 この日は休み。前日にハードな上り坂をクリアしてきたメンバーにとって、うれしいクールダウンです。中でも最年長の風間隊長は朝、ベッドから起き上がれないほどの全身筋肉痛でしたが、みんなの視線を意識して普通に振る舞っていました(……)。

 冬の人口800人という小さな町のキャンプ場から見える景色のすべては海。その遥か先には氷に閉ざされた南極大陸があります。

 そんな場所で休日をもっとも楽しんだのが、痛いはずの腰をおさえながら竿を片手に海へ出かけた隊長でした。

次へ▶

10月2日(金) またしても上りばかり……

波立つグレート・オーシャン・ロードを軽快に走る一同。しかしこの後、連続する地獄の山登り(丘登り)が待っていようとは……。さすがのマサもついに自転車を押して歩きます。

 曇り空の下走ること1時間半。ポートキャンベルの急坂で、とうとうマサが自転車を降りて歩きました。パースからここまで3700km。その間、一度も降りることのなかった坂道でついに重いペダリングに耐えかねてしまったようです。「ついにやりましたね。とうとう歩いてしまった心境は」と風間隊長が意地悪くたずねると「うるさいな〜。もう、まいりましたよ」と苦笑い。

 マサは8年前、とある自動車メーカーの製造部門で働いていました。ある夏の日に工場内の重い部品棚が彼の上に倒れてきて、4、5、6番目の頸椎を損傷。一時は命も危なかったのですが、驚異的な体力、回復力で4ヶ月後には車椅子、7ヶ月後には松葉杖で歩けるほどに回復したのです。現在は左腕と左足にしびれが残り、歩行困難になるときも少なくありません。しかし日々仕事や趣味に忙しく、身体の不便さを乗り越えながらがんばっているようです。その彼が自転車を降りるほど、この日は急坂が連続していました。

 ここまでは景色を楽しめるレベルのハードさでしたが、標高はついに400mを越え、「上りの次は下り」という期待は恒例のように裏切られ続けたのです。外気温は9度。吐く息は白く、サングラスも汗で曇ります。風間隊長も辛そうですが「もし降りたらマサに何も言えなくなる」と、力を振り絞りました。

 午後7時、アポロベイの町外れのキャンプ地にヘトヘトになりながらたどり着いたのです。この日の走行距離129km。

次へ▶

10月1日(木) 10月だけど「春」

釣りをする少年たちの足元までクジラが接近してきます。また、別の海岸ではアザラシの大群を発見しました。

 

 いよいよ10月に入りました。視界ではオーストラリアの明るい「春」の景色を感じながら、心では懐かしい日本の「秋」を思う複雑な感覚です。

 まずビクトリア州のメインルート「グレート・オーシャン・ロード」に向かいます。その途中の海でシール(アザラシ)の群生を見て、陸では待望のコアラと初対面しました。他にもカンガルーはもちろんワニ、クジラ、タスマニアン・デビル、そして新幹線のモデルにもなったカモノハシまで、オーストラリアの雄大な自然の中では様々な動物に巡り会えます。

 幸運な追い風を受けて、この日は138kmを快走しました。

次へ▶

9月30日(水) 青空の下、サキ完全復活

とうとうビクトリア州に突入です。元々鍛え上げられた肉体を持つサキは回復力も普通ではありませんでした。みんなひと安心です。

 西オーストラリアからはじまった旅もこの日で35日目。ついに3番目の州、ビクトリアに入りました。1年で一番美しい「春」ということもあり、出会う風景がすべて素晴らしい。ついキョロキョロしてしまいます。

 元気を取り戻したサキは声に張りがあります。一昨日の不調の原因は本人によれば「単なる食あたり。腐った牛乳飲んだのかも」と、まわりの心配もよそにケロリとした顔つきでした。

 高校時代まで陸上とスキーをかけもちしてどちらも全国大会まで出場した彼女。大学でスキー部のエースとして活躍していた20歳のときに「骨肉腫」と診断されたのです。目の前が真っ暗になりながらも、持ち前の明るさでその現実を乗り切りました。治療期間は2年。中学校の体育教師を経て現在に至ります。毎日平均100kmを走るこのチャレンジ中は、とくに寝る前と出発前にはケアとストレッチを欠かさず、左膝の人工関節に気を使っていました。

 この日は105.9kmを走り、午後3時30分にポートランドの街へ到着です。ここまでの総走行距離3545km。

次へ▶

9月29日(火) タンポポ街道は森林の中

カナダを思わせる森林地帯。チェリーのランチでみんな元気いっぱいです(カゼの風間隊長を除いて)。サキは元どおりエネルギーのかたまりのように走り出しました。

 

 晴れ。空に浮かぶデッカイ飛行機雲に圧倒されつつペダルを蹴り続けます。狭い空の下に住む日本人にはあまりなじみの無い大きさでした。

 いつものようにチェリーが作る美味しいキャラバン・ランチを食べた後、2日半の待機から立ち直ったサキが戦列に復帰した。以前にも増して元気いっぱいです。入れ替わりで、こんどは風間隊長がカゼでダウンしました。

 沿道には黄色いタンポポに似た、キク科の「ケープウィード」が一面に咲いています。2日ぶりに晴れ渡った青い空も気持ちよく、田舎の街道を行くみんなの気分はじつに爽やか。やがて道は松の森林地帯に入り、まるでカナダに来ているかのような気分になりました。砂漠、湿地帯、草原、そして森林地帯など広いオーストラリアはいくつもの表情を持っています。

 夕方4時にマウント・ガンビアの街に到着。この日は138km。総走行距離は3513km。シドニーまではあと1500kmとなりました。

次へ▶

9月28日(月) サキ、もう1日静養指令

美しい景色ばかりで気分も盛り上がります。このあたりの海ではロブスターがよく獲れるそうで、すっかり街の「顔」になっていました。

 前日、吐き気に続いて頭痛に悩まされて戦列から離れたサキ。生越先生の診断は「インフルエンザの可能性も否定できないし、体質(肺の手術)にも注意が必要なので今日1日は休養」とのことです。異国の地でハードな挑戦中の体調不良。彼女の様子は心配ですが、こんなとき医師の存在を何よりも心強く感じました。

 この日の道のりは新緑の草花が咲き乱れる草原、湿地帯、湖、そして海が連続する美しい風景ばかり。まるで国立公園の中を走っている感覚です。山の斜面で大きなカンガルー、広い牧場の中でエミュー、そして海の近くでウォンバット(ネズミに似た有袋類)にも初対面。生越先生も自転車を停めて大喜びで見ていました。

 毎日アグレッシブに走るテツの自転車はこの日だけで2回もパンクしました。彼は1本の足でちょっとした段差があっても飛び越え、草むらへの用足しでもスイスイ自転車で入っていきます。ただ、転ぶときは派手にやってしまうことも多いのですが、鍛えた身体にダメージはありません。

 肌寒い小雨の中を145km走って、夕方4時にLOBEの街に着きました。

次へ▶

9月27日(日) 釣れないのはルアーのせいじゃなかった

国立公園の美しい景色の中を走り抜ける。いよいよ本領を発揮した生越先生が先頭を走り、ペースメイキングしていきます。

 朝、サキが不調を申告。ローテーションから外れて静養させます。この日の宿泊地は南に101km行ったところにある「ポリスマン・ポイント(オーストラリアの地名ネーミングは単純なものが多い。ここもお巡りさんが駐在していたことが由来)」。みんな必死にペダリングしますが、前線の影響でしょうか向かい風が強く、速度が時速10km台に落ち込むこともありました。

 そして午後4時にポリスマン・ポイントに着きました。町にあったのはガソリンスタンドとモーテルがたったの1軒ずつ。

 海辺ということもあり、さっそく風間隊長は釣りに出かけました。モーテルのおじさんに「塩分が強すぎて魚はいない」と言われますが、「やってみなければわからない」と百発百中のルアーを使ってチャレンジしました。しかし残念ながら釣果はゼロ。実際にビックリするほど塩辛い海水だったのです。

 その帰り道、隊長はブッシュの中で草に足が引っかかって大転倒。昼間は勇ましく突っ走る自転車野郎も草むらではまともに歩けないのか……と、まさに“泣きっ面に蜂”の風間隊長でした。

次へ▶

9月26日(土) ヒョウまで降った誕生日

ずぶ濡れになって心も表情もドンヨリ曇っています。雨はいつしかヒョウに変わって我々を打ちつけました。

 南オーストラリア、サウスウェールズ、そしてビクトリアという3つの州の境を流れる大河、マリー川にかかる「マリー・ブリッジ」を渡りました。

 この日はアデレードの街を離れた直後から険しい山越えになりました。ヨーロッパのようなアップダウンのある丘陵地帯を行くと激しい風雨に襲われたのです。さらに雨は大粒のヒョウに変わり、過酷さは増していきました。

 気温は一瞬5度まで下がり、寒さが身にこたえます。日中でも8度までしか上がりません。景色もアデレードまでとは一変して、緑の色濃い丘陵、田園風景が続きます。つぎに目指すはオーストラリア第2の都市、メルボルン。

 注目の生越先生は最初は様子をうかがいつつ軽めに走っていましたが、乗り方に慣れてくるといよいよ本領を発揮。かなり急な上り坂でも、逆風でもまったくへこたれずにガンガン進んでいました。気を抜いていると、これからあおられそうです。

 午後4時過ぎにA1(プリンセス・ハイウエイ)に面するタイレムベンドの村に到着。そしてこの日は風間隊長の59回目の誕生日でした。

次へ▶

9月25日(金) 正田先生のバトンタッチ

どうやら自転車の猛者であるらしい生越先生(写真上)が到着。一方、正田先生(写真右)はアデレードから帰国します。お疲れさまでした。

 ここまで10日間一緒に走った正田先生が新潟からやってくる522生越章先生(新潟大学大学院・整形外科学分野・准教授・48歳)と交代します。仲良くなれたところでの交代はお互いに辛いですね。

 空港に到着した生越先生は以下のように話していました。「自転車は毎日欠かさず20kmは乗ります。とくに週末は県境の峠という峠をやっつけていますよ」自転車のウデはかなりのもののようです。

 以下は正田先生のコメントです。
「私の同行区間はセデューナからアデレードまでの約800kmでした。自転車は素人同然でしたが、みんなに引っ張っていただいてなんとか走れるようになりました。『このメンバーはみんな足では走れないけど、自転車に乗ったら健常者と変わらないよ』という風間さんの言葉に納得しました。みんなすごいペースで走るのです。それと同時に、普段私が気づかない障害者ゆえの不便さも遅ればせながら実感できました。

 無事に走り終えることを祈りながら、私は日常の診療に戻りたいと思います。この期間、私のフォローをしてくれた病院のスタッフに感謝します。(兵庫県立西宮病院 整形外科 正田悦朗)」

次へ▶

9月24日(木) 近代的なアデレードの病院

デパートのエントランスのようだが本当に病院なのです。多くの医師から歓迎を受けました。

 街の中心にある「ロイヤル・アデレード・ホスピタル」を訪ねました。同病院の整形外科学・外傷医学のメリック・J・シェハード准教授と獣医学・医学の専門医であるニック・ファッザラリ教授の2人が案内してくれたのです。

 院内はまるでデパートにいるような気持ちになるほど、あちこちがピカピカ。

 シェハード准教授は「オーストラリア・トラウマ協会」の会長。『近年の外傷医療のニーズの高まりを反影して、2016年には外傷専門の「トラウマ・センター」がここアデレードにも完成します』とうれしそうに話してくれました。どうやら施設はもちろん、従来の整形外科の範疇を越えた視点での取り組みを計画しているようです。2年に1回行われる情報交換のための国際会議で、イギリスやスイスで素晴らしい取り組みがあれば、すぐに取り入れて行きたいと意気込んでいました。

 医療にとってもっとも必要な態度は、と聞くと以下のように答えてくれています。「教育(トレーニング)、実践(現場、手術など)、研究(勉強)の3要素が最も大切」

次へ▶

9月23日(水) 街は美しく、心も穏やか

道端の麦畑がいつの間にかぶどう畑に。ついにアデレードの市街地に入りました。全走行距離が3000kmを越えます。

 日本を出発して1ヶ月、ようやく全行程の5分の3の地点となるアデレードに到着しました。人口100万を越える大都市、アデレードに近づくにつれて沿道にある畑の作物が麦からオリーブやぶどうに変わっていきます。そしてパースを出て以来2本目となる「ちゃんと水が流れている」川を何本も渡りました。豊かな水と肥沃な土地が大都市を支えている、という感じです。

 久しぶりにコンビニエンス・ストアで昼食。店内の窓側にある椅子に座り、サンドイッチをほおばりながら、言いようの無いうれしさを感じる風間隊長。自然がイイ、と他人に言いながら本当は都会に戻ればホッとする自分の二面性に困惑しつつも、住み慣れた「日常の重さ」もシッカリ自覚していました。人は忘れかけた大自然と出会って懐かしい「郷愁」をおぼえ、再び都会に戻って「日常」のうれしさを噛みしめる。どちらも本物だと隊長は話していました。

 午後1時30分、美しい街並みのアデレードに到着です。本日の走行距離98km。

次へ▶

9月22日(火) 沈んだ気持ちを救った「呪われた花」

はげしい水しぶきと泥水。1日中雨具を着て走ります。奥が正田先生。
これが「サルベーション・ジェーン」

 朝、サポートカーと自転車組がはぐれてしまい30〜40分のタイムロス。アデレードに向かうのはみんな同じなので焦らず目的地へ進めばいいのですが、そのとき走っていたテツ、マサそしてサキの3人は慣れない異国でのハプニングにかなり焦ったみたいです。

 合流直後に冷たくて本格的な雨が降りだしました。ここまで約1ヶ月間、本降りにはあわないでこれましたが、どうやらこの日はいよいよ1日中降りっぱなしのようです。雨は容赦なく降り続き、大型トラックの跳ね上げる泥水も頭上からかぶって濡れネズミ状態。口の中までジャリジャリします。

 このひたすら過酷なガマンの走りに耐えるメンバーを一瞬癒してくれるのが道端に咲く紫の花です。乾いた土壌の南オーストラリア州では「サルベーション・ジェーン(救いの野草)」と呼ばれる植物で、飢えた羊がこれを食べて命拾いすることから名づけられました。しかし、お隣のビクトリア州に移ると「パターソンズ・カース(呪われた花)」と呼ばれるのです。それはあまりに生命力が強いために周囲に植えた他の植物が育たなくなるから、という話でした。

 呪われた花に癒されながら134.7kmを走り、午後4時にセントビンセント湾に面するポート・ウェイク・フィールドの街に到着。ここまでの走行距離2926km。いよいよ残り2000kmです。

次へ▶

9月21日(月) 道のりも半分を越え

ポート・オーガスタの橋から出発。豪雨の中、全員で慎重に進みます。

 この日から南オーストラリア州の州都、アデレードまで南下します。上空には暗い雲が出て気圧は下がり気味。天気予報は雨だけでなく強風やヒョウの可能性もあるという最悪パターン。

 3台の自転車を5人で回し乗りするローテーションにも慣れ、チームワークに円熟度が増したメンバー。しかし予報通りの強風と豪雨には苦戦しました。絶対に事故を起こさない、が旅の第一テーマなので気を引き締めて行きます。

 午前10時45分にマサの乗る3号車がパンク。そういえば以前にパンクしたときもマサが乗っていました。「マサ、体重何キロ?」「え〜と、71kgかな」風間隊長は「かな?」という曖昧な言葉を聞いて「もっとあるな」と思ったそうです。とはいえ、総走行距離も2700kmを越えています。タイヤとチューブがかなり消耗していたのも事実です。

 昼食後は北西の強風が完全に追い風となり、漕がなくてもドンドン前に進む楽チン状態。午後4時には金、銀、亜鉛、鉛の船積み港として有名な「ポート・ピリー」の街に到着。その瞬間に豪雨が降り出しました。ラッキー!

次へ▶

9月20日(日) やはりスポーツマン

信号機のある交差点で止まりながら進むなんてパースの街並み以来です。数々の工場や行き交う貨物列車や車など、久々に忙しい人々の営みを感じました。そして「道幅いっぱい」のトレーラーにも気をつけて走らなければなりません。

 この日で5日目になる正田医師は「まともに自転車に乗るのはこれがはじめて」と言っていたわりには強く、みんなのペースに遅れていません。町のサッカーチームでプレイする現役選手という話を聞いて“なるほど”と思いました。

 正田先生の専門は「骨折治療」。スポーツ外傷もこなしながら、とくに骨折には自信があるそうです。参加した感想を聞いたところ「すごく勉強になっています。オーストラリアの大自然にも感動していますが、障害をこえて頑張るみなさんの姿、そして我々医師が意外に知らない治療後のリハビリに関する見識の広さや情熱には驚いています」とうれしいことを言ってくれました。今回のような病院以外での医師と患者の交流も大切ですね。

 頭上には青い空と白い雲。76kmを走ってポート・オーガスタの街に着きました。ここまで4戦4勝の釣りを試みた風間隊長でしたが、ここでは釣果がありませんでした。残念。

次へ▶

9月19日(土) 忘れた頃にやってくる

単調な景色に油断が生まれがちですが、今回あらためて慢心する怖さを考えました。

 サキがちょっとした段差でよろけて左足を打ち、顔をしかめました。気丈な彼女がそんな表情を見せるのは珍しいことなので心配しましたが、大事には至らずひと安心です。

左足の関節可動域が狭い風間隊長のために取り付けられた左側ペダル。ノーマルより13mm短いのです。
 それを見て風間隊長は昔、北極点に遠征したとき薄い氷の上にバイクの前輪を落とし、あやうく6500mの海底に落ちそうになったことを思い出しました。それは遠征も中盤を過ぎてバイクで表情を走ることに慣れてきた頃に起きたアクシデントだったのです。このときの教訓が「災いは忘れた頃にやってくる」でした。好調ゆえにアグレッシブになりがちですが、走るメンバーは全員何がしかの障害をかかえているので油断は禁物です。

 サキの人工関節は骨肉腫によるもので、左大腿骨に入っています。元々陸上選手だった彼女は、このハンディを克服するために筋力アップと左右のバランスを養うための精力的なトレーニングを続けています。

 テツは20年前の交通事故で右足を根元から切断。自転車は左足のみで漕ぐのですが、さすがアルペンスキーのオリンピック選手だけあって誰よりも強いのです。マサは7年前の事故で脊椎を損傷しました。自転車は左足に麻痺と痙攣を感じながら漕いでいます。そして風間隊長も5年前のパリダカ出場時にトラックと衝突して左足の膝、足首、指の3関節の可動域を狭め、膝蓋骨除去のために左足の力がほとんどありません。そんなメンバーゆえに、今一度おごらず焦らず、気を引き締めて走りました。

 この日の走行距離は106km。パースを出て以来の大きな街「WHYALLA」に到着です。

次へ▶

9月18日(金) “世界の小麦”を作る麦畑

「広大な」という表現しか見つからない、どこまでも続く麦畑。
途中で寄った町、Cleveで撮った公園で遊ぶ少女。

この日の宿泊地、コーウェルはマングローブの群生地。

 

 朝8時前に出発。この日も広々とした麦畑ばかりの景色が続きます。目的地への道はA-1(国道1号)を使った方が早く着きますが、田舎道のB-91を使ってコーウェルの海を目指しました。

 東へ進むにしたがって荒野や麦畑に区分けや境界線を示す有刺鉄線などが目立ってきます。交通量も非常に少なく、風景の美しさと静かさに“うっとり”です。このあたりの平均的小麦農家の畑の面積は2000hr。麦は1hrあたり2tの収量が見込めます。昨年の実績では1tあたりの売値は300豪ドル。つまり2000hrであれば120万豪ドル(約1億円)になります。あらためて世界の小麦マーケットへの影響力の大きさを実感しました。ただし天候によって収量は変わるので、毎年同量の小麦が出荷できるわけではありませんが。

 「まったく同じ風景。地球はどこに行っても、じつはどこか似た風景が展開している」風間隊長は遠くの広大な農地で働くトラクターの姿を見て、2年前に訪れたウクライナの大穀倉地帯を思い出したようです。

 午後3時40分、海に面する人口880人の街、コーウェルに到着しました。
キャンプ地はマングローブの群生する青い海に面しています。さっそく釣りに興じる風間隊長。アジとサバをかけ合わせたようなMULLETという白い魚を釣り上げました。そして数百メートル前方の海面には背中を光らせるイルカの群れも発見。海の自然も“濃さ”を思わせるオーストラリアの魅力です。

次へ▶

9月17日(木) 荒野の次は、どこまで行っても麦畑

麦を運ぶ運搬専用線路が大穀倉地帯を東西に走っています。そして村に必ずある巨大な貯蔵庫。

 どんよりした曇り空だが西の方は明るい。午後には晴れるだろうと期待して全員で元気いっぱいの出発。

 以前の荒野とは一変してセデューナ以降の景色は麦畑一色となりました。通過する村の真ん中に見えるのは巨大な麦の貯蔵庫。世界のマーケットに向けて麦の生産、輸出をするオーストラリア最大の穀倉地帯だけに大規模です。

 どこまでも続く緑の麦畑と青い空。みんなペダルを漕ぐのにもだいぶ慣れてきました。風間隊長の90度以上曲がらない細い左足にも筋力がみなぎっているようです。テツの1本足で自転車を漕ぐスタイルも普通に感じるようになりました。

 154kmを走り、夕方に「Wudinna」のキャラバン・パークに到着。この付近はオーストラリアの最高気温と最低気温を記録する場所だそうです。

次へ▶

9月16日(水) 農家にとって雨は死活問題

快晴が多い今回の旅。たまには暗い空の下を走るのも新鮮な気分です。そして初日を迎えた正田先生。

 朝、渡邉先生を空港まで送ります。この空港のターミナルビルが驚くほど小さい。敷地は成田空港ほどもあるのに、ビルは個人宅なみなのです。

 引き続きシドニーを目指す我々の仲間として正田先生が新たに加わりました。この日は93km先の「Wirrlla」という田舎町を目指します。スピードは最初のうちは時速20km程度で徐々に速くしていくこと、それから大きなトラックに驚いてフラフラしないように、と日本でほとんど自転車に乗らない正田先生に注意事項を伝えました。それというのも、三〜四重連結という列車のように走る大型トラックの強い風圧に巻き込まれて、過去に何人もの日本人サイクリストが尊い命を落としているからなのです。

 心配していた雨は小雨がパラつく程度でしたが、途中で大雨に変わりました。午後2時過ぎに到着したホテルのおばさんによると、まとまった雨が降るのは約2年ぶりとのこと。歴史的にも雨不足なこの土地で、大雨はまさに天の恵み。干ばつが続けば農作物はすべてダメになってしまうので、雨は農民の運命を握っていると言っていいかもしれません。聞いた話によると5年の間でうまく収穫できるのは1年くらいという低い確率。慢性的な雨不足と言えるでしょう。

 雨による漏電で停電にはなりましたが、この晩に降った雨の降水量は19mmとかなりの量で現地の人々は大喜びだったようです。

次へ▶

9月14日(月) 渡邉先生との別れ

セデューナの象徴でもある、青い海にかかる美しい桟橋。
エミューのマネがうまかった渡邉先生。もちろんニックネームは「エミュー渡邉」。

 パーティーの余韻を残した宿泊地を早朝に出発し、宿の7軒先から続く大草原をひたすら東に向けて走り出しました。75km進むと景色は荒野から一変。携帯電話も通じる“文化圏”セデューナの街に到着です。

 人口3500人の港に面したリゾート地。すっかり“荒野の人”になっていた我々には大都会に見えました。ここで16日間行動を共にした渡邉先生が新しいドクターとバトンタッチして帰国します。

 ここからは渡邉先生の言葉です。「約1400kmの行程で小さなケガはあったものの、みんな元気にセデューナまで走破できたことは、ひと安心です。メンバーは予想に反して元気で活動的な障害者3人と、いつも少年のような眼差しの風間さんという楽しい面々でした。ハンディキャップがあっても残された機能と能力を十分に鍛え、健常者と変わらないどころかそれ以上に行動的なメンバーと接し、私も触発されました。人間として貴重な体験ができたと思います。私の上司である甲府病院整形外科スポーツ膝疾患治療センター長の萩野哲男先生にこの企画を紹介していただき、休暇をとらせていただいたことで参加できました。この場をかりて感謝の意を表します」

次へ▶

9月13日(日) パーティーに乱入!?

デービッドさんもシドニーを目指して横断中。総走行距離はついに2000kmを突破!

 同じモーテルに宿泊していたニュージーランド人のデービッドさん(56歳)と次の町まで一緒に走ることになりました。走り出すとき、彼に我々の「ジェッタ」に乗ってもらうと、かなりアシスト機能に感激した様子。「これなら息子にピッタリだ」と本気で購入を考えているようでした。

 76km走って宿泊地の「Penang」に着きますが、一同はそこを通過して40km先まで旅のペースが速いデービッドさんに付き合い、別れてから町に戻ったのです。

 モーテルに入ると、ダニエルくんという青年の「21歳の成人を祝うパーティー」がバーで夕方から開かれると聞いて、我々も参加しました。パワーアンプmaxの大音量で生バンドのレトロロックが鳴り響きます。演奏に熱が入り、徐々に人も集まりはじめましたが、盛り上がりは今ひとつ。そこで風間隊長は「ここはひとつ旅人が!」と、会場のセンターへ出て踊りだしました。すると会場全体が大ウケ。そこからパーティーが盛り上がったのは言うまでもありません。

 まさに「旅の恥はかき捨て」ですが、当事者のダニエルくんを含めみんな楽しそうでした。

次へ▶

9月12日(土) 釣り好きの血が騒いで……

本当に釣れました。それも大物です。

 キャンプ地から南に20kmほど行ったところにある「Fowlers Bay」という海辺の町に出かけました。釣り竿を借りて投げ釣りかルアーでも、と思いましたが残念ながらレンタルは無いそうです。

 それでもショップの壁に数多く貼られた釣果の写真を見るかぎり、かなり魚影が豊富な場所なのでしょう。そう、ここは南氷洋なのです。

 自転車より釣りが好きと自任する風間隊長は、しばらくすると安い「イカ釣りセット」を買い、桟橋で糸を垂らしはじめてしまいました。セットといっても25mの糸とイカ用のルアー、そして浮きだけ。青く抜けるような空の下、「こんなので釣れるのかな」と疑心暗鬼になりつつ流しては引いてを繰り返します。

 しばらくすると、目がギョロリと光る2kgほどのイカが釣れました。「どこにいても釣りは楽しい!」天にも昇るほどという表現がピッタリな大喜びの風間隊長。その後も2杯のイカが釣れたので、この日の晩ご飯はおいしいイカ丼になりました。

次へ▶

9月11日(金) こんなに近くでクジラが見れるとは

入場料12ドルで親子クジラの様子が目前で見れる距離まで近づけるのです。そして1日に何回も出会うのが本物の“大型”トレーラーやトラック。巨大さは日本のソレらとは比較になりません。

 今日も暑くなるであろうことを予想してインナーを脱いで出発。午前10時で気温29度、午後には31度まで上がりました。薄着で正解です。

 途中でオーストラリア海岸公園のホエール・ウォッチングを体験。毎年5〜9月くらいに出産と育児をかねて暖かい入り江に寄るクジラを岸から観察するのです。障害者やお年寄りでもクジラの近くまで行けるように木製の渡り廊下が設置してありました。

 走っていると大草原の景色は再びユーカリの木が増えて森の要素が混ざってきました。風間隊長は90kmというノルマを走りきりアボリジニの住む町、ヌンドローに到着。この日の走行距離146km。ここまでのトータルは1938km。

 

 

 

 

 

 

次へ▶

9月10日(木) “生暖かい”北風に吹かれて

さんざん平原を走ってきたと思ったら、この看板。どうやらこれからが“本番”のようです。美しい夕日はナラボー平原の地平線に沈みます。

 朝、強い北風の中を進む。右手は広大な原野で左手はどこまでも青い海。疲れたときは原野より海を見る。気分的なことですが、これって人間の起源と関係があるのかも。

 トップを走るものがペースを作る。普段は後ろからプレッシャーをかけるサキをトップに据えた。結果的に隊長・風間はバテバテ。サキの方がわずかに速いのだが、それが長時間にわたるとかなりの差になります。遅れを挽回しようといつも以上に力走してしまった結果でした。この日は気温も33度とこれまでで最も高く、身体に当たる風も体力を奪います。これがさすがオーストラリアというか、北から吹いてくるのに生暖かいのです。

 「ナラボー国立公園」の区域に入ってから景色が変わりました。ひと際低い灌木と草だけの平原に。そして夕方、ようやくキャンプ地に到着。バテバテです。

 この日の宿泊は、その名も「WESTERN END OF THE TREELESS PLAIN」。

次へ▶

9月9日(水) ジェッタもそろそろ増し締め

メンテナンス中の
メンバー、スティーブ。
明日からまたコレで元気に走ろう。

 

 

 

 

 

 

 南に海を見渡す高台にあるキャンプ場「ユークラ」にて休養。新車でスタートした愛車「ジェッタ」も走行距離1600kmをこえたので、この機会に総点検です。疲れをとってリラックスするだけでなく今後の道中に備えます。

 整備をしつつ洗濯や散歩、他のキャンパーたちとのおしゃべりなどで、休日の時間はいくらあっても足りません。大きなトレーラー・キャンパーを車で牽引して旅するおじいさんやおばあさん達も多く、話は尽きないのです。

 夜は毎日、天空に輝く南十字星を見ながら眠りにつきます。

次へ▶

9月8日(火) 久しぶりの南極の風

山肌が低くなったと思ったら海の近くまで来ていたのです。丘から見るグレート・オーストラリアン・バイトは広く、蒼くどこまでも続く海。

 晴れ。午前中は北からの向かい風を受けてキツい走り出し。間近に迫る山肌を見ながら2時間走ると地平線上に青い海が見えてきました。この海の名はグレート・オーストラリアン・バイト。出発地のパース以来の海です。

 丘の上に出ると、そこは視界いっぱいに広がる青い海。大陸も大きいオーストラリアは海も例外じゃありません。この海の先はもう南極大陸。久しぶりに(風間は過去に2回南極へ遠征している)対面する南極からの風を直接受けて気分も上々です。

 西オーストラリアと南オーストラリアの境界線を越えて53km走ったところで、宿泊地の関係もありこの日は終了。走りはじめて15日目。ようやくメルボルンまで半分という距離まで来ました。

次へ▶

9月7日(月) 生きている動物を見るなら夕方

よく見ると原野の中にいっぱいのカンガルーがいます。路上で遭遇したトカゲをからかうサキ。

 エミューもカンガルーも出会うのは死体ばかり。そろそろ生きている動物が見たいメンバー一同。朝、旅人が連れている犬を見て「今日は会えるかも」と期待もふくらみます。

 この日は渡邉先生を入れて5人で3台を走らせ165kmをかせぐ予定。1人のノルマは100kmほどとハードですが、このところ全員が「ジェッタ」に慣れてきたのでそれほど不安ありません。

 午後、先行していたテツとサキが道端にいたトカゲを観察していたところに後続のマサが追突し、左足にケガを追ってしまいます。「単なる擦過傷ですが、全治2週間ですね」と落ち着いて処置してくれた渡邉先生。ドクターがいてくれる心強さを実感した一同でした。

 朝に“生きている”カンガルーとの遭遇を予感したのですが午後になっても見当たりません。黙々と走っていると、前方にゆっくり歩くエミューの親子が現れました。その後さらにカンガルーの親子も目撃。その後、2、3分で新たな7、8頭のカンガルーに出会い、続けて15〜20頭の集団にも。どうやら場所にもよるが野生動物を見るには夕方が良いようです。

 西の空が茜色に染まる6時過ぎに165kmを走りきり、捕鯨の村「ムンドラビル」に到着。ここまでの走行距離1524km。

次へ▶

9月6日(日) 違うタイプの自転車

トライアスロン世界選手権で40歳以上の人が出場するマスター部門の2位だったというロータリークラブの女性。電動アシスト自転車「ジェッタ」に試乗した後のご機嫌な笑顔。それにしても彼らのペースは速い!

 ここ数日の滞在地は人口0〜8人という「村」というより「キャンプ」といった場所。ほとんどがガソリンスタンドとレストラン、モーテルがパッケージになった旅人のオアシスを1家族が協力しながら運営している、という形態のようです。ナゼこのようなオアシスが点在するのかというと、1962年にパースで開催された大きなスポーツ大会をキッカケに政府が道路の整備と「サービスの拠点」の建設を命じたからだそうです。今でも様々なアスリートが多数立ち寄って英気を養っています。

 この朝は出発前にオーストラリア一周の最中であるロータリークラブの人たちによる我々の自転車の試乗会が行われました。ほとんどのメンバーは電動アシスト自転車が初体験。「ジェッタ」の漕ぎはじめに“グッ”とくる感覚を体験してニヤニヤしつつ、楽しそうに乗っていました。

 もちろんその後は日豪の合同ツーリング。8段変速ギアの我々に対してロータリークラブの自転車は21段変速。テツもサキも食い下がりましたが苦しい戦いだったのです。(リベンジは上り坂で!)

次へ▶

9月5日(土) 恵みの雨もすぐに大地が吸収

ナラボー平原を走る大型トラック。オーストラリアのトラック野郎も物流を支えて毎日走っています。ブロウホール(風穴)から吹き出す風はかなり強いのです。

 朝から強風が吹き土ぼこりが舞っています。本日は停滞日。やがて水たまりができるほど雨も降りだしました。カンガルーがその水たまりの水を飲みにきます。ここで生きるものにとって水は何物にも代え難い貴重品。乾ききった地表にはぬかるみすらできず、雨があがるとみるみるホコリっぽい大地へと戻っていくのでした。

 そんな雨の中、オーストラリア・ロータリークラブによる「メンタル・ヘルスケアー」キャンペーンのために、自転車によるオーストラリア一周を目指している人たちがキャンプ地にやってきました。彼らは今年3月にタスマニア島を出発し、メルボルンを経由して左回りに20000kmを走り10月にゴールする予定だそうです。各地で資金を募りながら参加者を集め、すでに1億円集めたというのですから驚きです。

次へ▶

9月4日(金) どこまでもどこまでも

 

146km続く直線道路に向けて出発! ひたすら続く真っすぐな道を進む。日本ではありえない経験です。このスケールの大きい直線を記念して清水市(現・静岡市)の友人からもらったハッピを着て走る風間。

 快晴。朝の気温4度、日中14度。「平原」という名前の印象からはかけはなれた上りばかりの道が続く。広々としたナラボー平原に入ってからというもの平坦な道や下り坂を走ることは少なく、無限に続くような上り坂を駆け上がっています。少しずつ高度も上がり、気温も下がりました。そしてこの平原はまだ東に1000kmほど続くのです。

 そして有名な146km続く直線道路に進入しました。行く手に蜃気楼が浮かぶような、ひたすら真っすぐな道。所々に車にひかれたカンガルーの死体が転がる景色はオーストラリアの現実そのもの。はじめて見るメンバーにとっては別世界ともいえる景色がひろがるのです。

 漕いでも漕いでも抜け出せない試練ともいえる直線道路は6時間かけてようやく脱出。

 今日進んだ距離151km。現在の全走行距離1224km。

次へ▶

9月3日(木) ナラボーの地はひたすら広く、そして寒く

ついに走行距離が積算で1000kmをこえた。ナラボー原野の夕日。走って疲れた筋肉は湿布を貼ってケアする。

 南極からの風の影響を受けるナラボー平原に入ってからだいぶ気温が下がりました(朝の気温2度、日中のが11度)。このとき日本は夏の終わりですがオーストラリアは早春なのです。

 8時40分に南北160kmに広がるキャンプ場(数年前まで羊の牧場だった)を出発。相変わらずゆるやかに上下するだけで一直線の道が続きます。

 ナラボーの中心地に入ってからは鼻が痛くなるほど気温が下がりました。周囲の原野からはユーカリの木がなくなり、背の低いトゲトゲの木や草が生えているだけの景色になっています。ひとりで走っていると心細くなり、郷愁の念がこみ上げるのをおさえられません。

 空に連なる雲の下が紅く染まる16時30分にキャンプ場に到着。全員走ることに慣れたせいか快調なペースです。「ここから先146km真っすぐの道」という標識が立っていました。この日の走行距離は124km。

次へ▶

9月2日(水) まだまだ5分の1未満

ラクダとエミューとカンガルーの飛び出し注意看板。これが道端に出てくると本格的に「オーストラリア」という感じです。どこに言っても大人気のテツはあらゆる人に記念写真をせがまれます


 様々な自然に直面しつつ思いを巡らせ、ひたすら今日の目的地へ向けて進む一同。360度見渡すかぎりの原野「ナラボー平原」の一本道を突き進む。

 右足1本で自転車を漕ぐテツはどこへ行っても人気者。宿泊地のキャンプ場に居合わせた多くの旅行者にモテモテで、記念写真をせがまれていました。恥ずかしそうに応じるテツは、あることを実感していたようです。それは、ありのままの姿で人に出会うだけで、少なからず人に生きる勇気と感動を与えられるということ。そしてそれは他のメンバーにとっても、障害を持ちつつも自信を持って生きなければならないという思いにつながってゆくのでした。

 この日の走行距離は101km。パースから850km、シドニーまで4000kmという位置。夜の空は大迫力。なにしろ星空と月明かりがスゴいのです。

次へ▶

9月1日(火) 旅に慣れたと思ったらパンク

道中に出現した湖はなんとカラカラに干上がった広大なドライレイク。そして今回の旅ではじめてとなる自転車のパンク。

 前夜に泊まった「Widgiemooltha」という町は70万分の1地図にも記載されている区間の距離表示の目安にもなっているところだが、実際の人口は3人で建物はたった1軒。この一家が引っ越したらどうなるのだろう……などと考えつつ出発。目的地は90km先にあるノーズマン。南へ行く道と東へ行く道の分岐点。

 やたらと続く上り坂に慣れただけでなく自転車の扱いにも慣れ、うまくなった一同は90kmくらいの行程であれば4、5時間で走破できるようになりました。この日も途中でパンク(なんとトレーラーと自転車の両方)というアクシデントに遭うも、道草、昼食も入れて午後2時にはノーズマンに着いたのです。

 

 街に到着してからトレーラーのパンク修理をしにタイやショップへ行きました。そこのオバちゃんに聞かれてこの旅の目的、そしてメンバー全員が何らかの障害を持っていることを話すと、かなり関心されて修理代をタダにしてくれたのです。オーストラリアであつい人情にふれたメンバーでした。

次へ▶

8月31日(月) 海まで下りばかり……ではない

この日から方向が変わります。まずは180km先のノーズマンへ向けて出発。そしたら最初は上り道の連続。まさに全員「聞いてないよ〜」状態。
 これまで1週間を共にした松下教授が帰国。朝はカルグーリーの金の鉱山を見学してから出発しました。再びメンバー全員でシドニーを目指します。ペースは180km先のノーズマンへ2日で着くスピードです。

 アシスト付きとはいえ自転車なので、少しの上り下りが乗り手の心にあたえる影響は少なくありません。やはり上りが続けばキツいのです。この日の午前中はまさにその状態。終わる気配の無い上りに全員が悪戦苦闘していました。標高400mのカルグーリーからまずは海まで下るのだから下りばかりという印象ですが、海に出るまでの距離は400km先。それだけ遠ければ当然上りも少なくありません。

 日中の気温は今までで最高の19度。午後0時40分に昼食。メニューは日本人の好物「サラダライス」とバナナ、そしてコーヒー。

 まだ陽の高い午後4時に本日の目的地「Widgiemooltha」に到着。走行距離は95kmでした。

次へ▶

8月30日(日) 新メンバー到着待ち

翌日に合流した渡邉義孝医師。サキに次いで若い34歳。毎週必ず自転車に乗って身体を鍛えているという頼もしい新メンバー。

 日本から渡邉義孝(甲府国立病院医師・34歳)の合流を待つため本日は停滞。

 カルグーリーは古い金鉱の街。人口3万人の割に人影が少ない。街の作りそのものが広いせいかもしれません。昼はMacストアへ行ったり洗濯をして、夜は翌日から渡邉さんと交代する松下先生の送別会で盛り上がりました。

次へ▶

8月29日(土) 南十字星の町のお祭り

カルグーリーのお祭りにて。数々の展示や出店など1日中楽しめそうな内容だったのに、ゆっくりできなくて残念。

 出発の前に年に一度のサザンクロスの町のお祭りを見に行く一同。1台6000万円もする大型トラクターやオフロードバイク、牧場運営に必要な用品が展示されたり、羊の毛を刈る実演も行われると聞くとすべて見たくなりますが、残念ながらゆっくりしてはいられません。数々の出店やロデオ大会などに後ろ髪を引かれますが、気を取り直してゴールを目指します。

 両脇にユーカリの原野が続く道を午前中に30km、午後に68km走破して“鉱山の街”カルグーリーに到着。途中で同じようにカルグーリーを目指して走っていたおじさんや、1992年に国内で自転車ロードレースのチャンピオンだったという人と(速すぎて一瞬)並走。偶然の楽しい出会いは旅の醍醐味でもあります。

次へ▶

8月28日(金) 出会いは旅の楽しみ

青い空と真っすぐな道がどこまでも続く。パイプラインを修理する作業員。気さくで素朴な感じのイイおじさん達でした。

 このところ晴天続き。気温は朝が10度以下だが日中は15度前後にもなる。日本を発つときは真冬の重装備も覚悟してきたものの、どうやら必要なさそう。

 先発のテツとサキ、松下先生は毎日快調に飛ばします。沿道の左右はナショナルパークの原野という景色が続く。道端に転がるオーストラリア名物の“カンガルーの死体”を発見。この先の深くなる自然とともに、数も増えそうです。

 

 途中、パースからカルグーリーをつなぐ水道管工事の工夫3人に出会います。彼らの力強い仕事ぶりに触発されるメンバーでした。

次へ▶

8月27日(木) 颯爽と走りはじめたものの…

尻の痛さをガマンしつつ走り続ける。オーストラリアの舗装は荒く、まるでヤスリみたい。約7時間走ってモーリン・ロックに無事到着。

 早朝、深い霧に覆われた人口700人の小さな町、ケラバーリン。総勢10名が行動するとなると、なかなか予定通りに事が運ばないものですが、予定通りの時刻に出発。チームには早くも協調性が生まれている模様。

 走行距離は200kmを超えました。他のメンバーは日常的に長距離を走っていますが、風間は未体験領域に突入。サドルに当たる尻の痛さは増すばかり。こればかりは慣れるしかありません。

 この日の目的地は145km先にある「モーレン・ロック」の一軒宿。スタート直後はゆとりがあって、身も心も風景と一体となったようで「自転車はなんて良いのだろう」と思ったりするものの、距離が増すごとに表情は硬くなります。

 彼らの自転車は平均時速が22km。平坦路の巡航速度は時速25kmといったところで、上り傾斜が1度つくと速度が約1.5km/h(2度なら3km/h)落ちますが、普通の自転車に比べれば疲労はずっと少なくて済みます。つくづく電動アシスト自転車の選択が正解だったと実感しました。アシストが無ければ150km近くも走れません。

次へ▶

8月27日(木) アサヒコムの連載がスタートしました!

オーストラリア横断がいよいよスタート
現地からつづられる隊長のレポートを読もう!

オーストラリア横断隊一行は、
予定通り22日に成田を出発、23日にパースに到着し、
25日より、自転車による横断をスタートいたしました。
今回も「アサヒコム」にてレポートを掲載しており、
第一回目の原稿がアップされましたので
バナーをクリックして見に行ってみてください。
http://www.asahi.com/car/aus/

次へ▶

8月26日(水) 南半球の空の下

 最初の宿泊地はパースから100km進んだところにある人口7000人の街、ノーザム。前夜にはまさに“降るような星空”を見て歓声を上げた一同でした。

昼食は先回りしたメンバーが作ってくれたおいしい料理。自転車の電池もチャージしてやります。
 オーストラリアは南半球なので日本人にとって珍しい現象が日常的におこります。たとえば太陽は北東の空から昇り、北西に沈みます。星座も珍しいものが多く、気温も南に行けば行くほど下がるのです。季節は日本が夏なのにオ−ストラリアは冬。他にも生態系などの違いに遭遇することもありそうで、メンバー全員が楽しみにしているようです。

 本日はノーザムからケラバーリンまで105kmを走ります。変わらぬ景色の中を長時間走り続けるシンドさを、はやくも実感する彼らでした。

次へ▶

8月25日(火) 目前に広がる大平原

これが5000kmの道中を共にするパナソニック「JETTER」。風間が使うものは左クランクが30mm短い仕様となっている。これによってケガした左足の少ない可動域でもペダルが漕げるわけだ。この「ジェッター」は5ahのバッテリーを主電源とする電動アシスト自転車。
 インド洋に面するパースの東端、「チャレンジ・ハーバー」を早朝5時30分に出発。いよいよシドニーを目指す長い旅がはじまりました。

 この旅には風間ら“乗り手”の他にサポート隊の面々が同行します。随伴するトレーラーは屋根に手作りの600wソーラー発電システム)を装備した特別仕様。ジェッターのバッテリーは、このパネルで集めたエネルギーでチャージします。

 幹線道路の朝の渋滞を抜けると、そこはどこまでも続く草原。走行中は右の義足を外すテツ(田中)は、左足1本で誰よりも力強く走り、つねに笑顔のサキ(今利)はペダルを踏むたびに音の出る人工関節を克服しながら走る。

 道はアップダウンを繰り返しながら、ほとんどまっすぐ。ある意味ハードな道中ですが、適度な疲労感と心地よい風を受けながら前進できるのは電動アシスト自転車ゆえの魅力。

 ここからは毎日平均100kmを安全第一で走り続けるのです。

次へ▶

8月18日(火) 出発直前の記者会見を行いました

隊長、参加者らの意気込みと共に
横断のパートナー「JETTER」も公開

8月22日の出発を直前に控え、記者会見が行われた。
会見では隊長の風間深志の他、参加者の今利紗紀と
『運動器の10年』日本委員会運営委員長である
帝京大学医学部整形外科主任教授 松下隆が出席し、
それぞれ意気込みを語った。
またオーストラリア横断に使用される
パナソニック製電動アシスト自転車
JETTER(ジェッター)も併せて公開された。

次へ▶

8月17日(月) バイクジャージのデザイン決定!

このジャージを着てオーストラリアを走り抜けます!

オーストラリア横断中着て走るバイクジャージのデザインです。各後援企業様のロゴと「TRANS WORLD AUSTRALIA BICYCLE CARAVAN 2009」のロゴが引き立つデザインです。

次へ▶

8月17日(月) 参加者プロフィール

一般参加者とサポートドクターのプロフィールです
応援よろしくお願いします

いよいよ8月22日の出発が近づいてきた。一般参加者3名の参加者も既に決定しており、これに風間が加わり2チーム編成でゴールを目指す。またサポートドクター5名も行程ごとに担当し全行程をカバーする。以下は一般参加者3名プロフィールとサポートドクター5名のプロフィールです。

【一般参加者】
●今利紗紀(いまり・さき)
1983年7月29日生
神奈川県横浜在住
障害者手帳4級所持 
障害名: 左膝関節機能障害(人工関節使用)
受傷年月日: 平成16年10月1日 骨肉腫により左膝人工関節置換術施行
その他転移再発により両肺の手術もしている

●田中哲也(たなかてつや) 36歳
札幌出身
障害:片大腿切断, アルペンで長野オリンピック出場者ゴルフをやるなど活動的で,現在,自転車にはまっている

● 山崎昌範(やまざき・まさのり) 47歳
大阪出身
自動車工場の勤務先に負傷。
左手、足に痺れと硬直、けい性麻痺あり。  
足は、麻痺が非常に強く足首の固定が悪い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【サポートドクター】
第1行程
● 松下 隆(まつした・たかし)
1949年生まれ
勤務:帝京大学医学部整形外科主任教授、『運動器の10年』日本委員会運営委員長

第2行程
●渡邉 義孝 (わたなべ・よしゆき) 34歳
勤務: 国立病院機構 甲府病院 整形外科 (山梨県甲府市)
自宅: 山梨県

第3行程
●正田 悦朗 (しょうだ・えつお) 52歳
勤務: 兵庫県西宮病院 (兵庫県西宮市)
自宅: 神戸市須磨区

第4行程
●生越 章 (おごせ・あきら) 47歳
勤務: 新潟大学大学院整形外科 (新潟市中央区)
自宅:  新潟市中央区

第5行程
●竹中信之 (たけなか・のぶゆき) 47歳
勤務:帝京大学医学部整形外科 (東京都板橋区)
自宅:東京都

次へ▶

運動器の10年・世界運動キャンペーン・オーストラリア大陸 障害者自転車横断 詳細レポート
Japanese  English
CONTENTS
10月19日(月) おわりに 〜今回の旅で学んだことと感謝の気持ち〜

◀最初から読む

最後まで走りきったメンバー全員。

クライスラーのサポートカーとソーラーシステムを搭載したトレーラーは完璧な活躍ぶりでした。
スポンサー各社には感謝の気持ちでいっぱいです。

 ほぼ2ヶ月ぶりの帰国。空港でみんなと別れた風間隊長は東京の自宅へ戻りました。狭くごちゃごちゃした都内の道路は、広大な大陸を走ってきた隊長から見れば自転車にとって不向きなように映ったようです。

 オーストラリアは大きく、厳しい自然に恵まれた国でした。野生で生きる動物とその死骸を見ては実感を深めたものです。そしてそこで生きる人々にとっても自然を相手に生きることは、毎日が真剣勝負であると5150kmを自転車で走り抜ける中でわかりました。

 今回の企画ではメンバー全員が障害を抱える者同士として集結し、目標に向かって走りました。日程の間ずっと、障害を乗り越え目標に向かって頑張ることの意味、そして何より「障害」とはいったい何なのだろうか? と同行者のドクターを交えて全員で考え続けたのです。

 その結論のひとつは、大自然の中にあって人間は「元気」でいることが最も素晴らしいということです。障害者だからこそ人生にポジティブに取り組む姿勢を大切にしたい、とも。またそれを支える医療環境は常に最善のシステムの構築を目指してほしいのです。

 最後にこの旅を支えてくださったスポンサーのみなさま、そして「運動器の10年・日本委員会」の先生方、さらに現地に駆けつけて一緒にペダルを漕いでいただいた5人の先生方、そしてこの旅をサポートしてくださったすべての方に感謝します。ありがとうございました。

 今後、2010年2〜3月に障害者100人による日本縦断駅伝・国内キャンペーンを予定しています。また6月からは南米、北米、グリーンランドを越えて「運動器の10年」世界大会の行われるスウェーデン本部にゴールインし、4年を費やした世界1周キャンペーン活動を完結させる予定です。

 

 

10月16日(金) ついにシドニーに到着。感動のゴール

感動のゴール・シーン。有名なオペラ・ハウスをバックに記念撮影。みんな力を合わせてがんばりました。

 気温は4度。ゴールの朝は晴天ですがだいぶ冷え込みました。カトゥーンバの駅裏にある安宿を8時30分に出発。この日の走行予定距離は102km。

 標高1000mから一気に下るので、かなりの速さで進みます。交通量は多く、後ろから迫ってくる大型トラックなどに注意しながら走らなければなりません。

 午後になって気温は20度を上回りました。ゴールの日に久しぶりの快晴が重なるなんて幸運です。2時30分、前方にシドニーの高層ビル群が見えてきました。車道は東京や大阪と変わらないほど混みはじめました。目指すのはシドニー湾に面するハーバー・ブリッジのたもとにある公園です。

 「よく走ってきたな」「うん」風間隊長にサキが嬉しそうに応えます。午後4時にとうとう最終目的地である「シドニー・ハーバー・ブリッジ」に着きました。ナラボー平原の原野からここまで、全走行距離5151.3km。パースを出発して毎日走り53日目のことです。マサもテツもサキも竹中先生もみんな晴れ晴れとした顔をして本当に嬉しそうでした。

次へ▶

10月15日(木) 日光いろは坂のようなワインディング

ものすごい勾配の連続を上り続けるサキとテツ。坂の途中でブルーマウンテン市に入り、看板前で記念撮影。
パースを出て5000km走ったことをメーターが告げていました。

 ゴールまで197km。残り2日となったこの旅を思い、感傷に耽る風間隊長をサキがたしなめます。「気を抜くのはゴールしてからだよ!」

 我々は今回「運動器の10年」という世界キャンペーンの国際親善大使としてこのチャレンジを続けてきました。リーフレットやバッヂをあらゆる出会いの度に配布し、その精神を伝えたのです。そして何人もの人たちから「頑張って」と声援をもらい、ときには10〜50ドルの寄付までいただきました。

 身体の障害を克服して頑張ることや、社会をより良い方向にもっていこうとする社会貢献活動の姿勢はこの国の人たちにストレートに響いたようです。本当にひたすら感謝するしかありません。

 ブルーマウンテンの町、カトゥーンバに続く道は次第に高度を上げ、まるで日光いろは坂のように曲がりくねりながら、ついに1043mのビクトリア峠に達しました。トリップメーターの積算計がついに5000kmを越え、2号車ははじめてチェーンを交換しました。ちなみにパンク回数は3台合計で9回です。

 この日の走行距離98km。いよいよ明日、待望のシドニーに着きます。

次へ▶

10月14日(水) “戦没者の町”を後に

弾丸男(竹中先生)が重さを利してテツを抜き去った瞬間です。そして周囲の牧草地では出荷が行われていました。

 前日に見学した旧日本兵の捕虜収容所跡とそれにまつわる悲劇的な話(収容所から脱走した378人の日本兵と、その内231人が死亡したこと等)を思い出し、鎮魂の念を心に抱きながらカウラを後にしました。

 雨が降る中、ゆるやかなカーブが連続する道を進みます。徐々に上がってゆく高度。

 そして元気になったテツが再び戦列に戻りました。「鉛の弾丸男」竹中先生もここにきて昔の自転車オタク少年だった頃の勘を取り戻したようで力強い走りを見せます。勾配10%の下り坂で最高速度75.6km/hを出したと言って鼻高々。マサもサキも負けずに元気いっぱい走りました。

 午後になって雨もあががり、山に晴れ間がのぞきます。標高もついに670mになりました。そして国内で最もカーレースが盛んな街、バザースト(人口3万7000人)に到着です。

次へ▶

10月13日(火) ふたつの記憶と日本人戦没者墓地

旧ガールズ・ホームの建物が残っていました。オーストラリア人にとって悲しい記憶の残る場所です。

 宿泊地のクータマンドラは人口4000人のごく一般的なオーストラリアの田舎町です。町の自慢は約70年前に活躍したドン・ブラッドマンというクリケット選手。驚異的な成績をあげて当時の貧しかったオーストラリア社会に希望をあたえた、という話を町の人が熱く語っていましたが、もちろんメンバーの中で知っていた人はいません(……)。

 そのクータマンドラを後にして125km先にあるカウラを目指します。途中で「クータマンドラ・ガールズ・ホーム」の校舎を見学しました。これはオーストラリア政府がアボリジニーに対して行った子供に対する保護(隔離)政策の施設です。映画「裸足の1500マイル」に描かれ日本でも上映されましたが、教育と保護を名目に行った悲しい強制連行の記憶は、今も多方面に波紋を投げかけています。

 いよいよ道は最後のハイライトとなるブルーマウンテン(標高1000m)に向けて上りはじめました。アップダウンではなくアップアップを繰り返し、強風や小雨に当たりながら午後3時30分にカウラに到着。ここは日本人にとってたいへんゆかりのある場所です。本日の走行距離は126.4kmでした。

 

旧ガールズ・ホームの
建物が残っていました。
オーストラリア人にとって
悲しい記憶の残る場所です。

次へ▶

10月12日(月) 鉄(テツ)人もカゼには勝てません

この日の宿泊地、クータマンドラ。ひっそりしています。
熱でダウンしたテツ。いつもなら怪物的な体力でカゼなどはね除けるのですが……。

 朝から雨が降っています。テツが前日から調子を崩して回復していません。いつも誰より元気のいいテツですが、このときはクシャミと鼻水で冴えない顔つきです。大事をとってこの日はローテーションから外れました。

 テツは現在38歳。青森の片田舎で牛の繁殖業と雑貨店を営む家庭に生まれ、厳しい父親のもとで小学生時代からよく家の手伝いをしたそうです。大学生時代に北海道でバイクに乗って右カーブで転倒したときに11m離れた道路標識に激突して右足を失いました。以来、左足だけで日常を生きています。

 ‘98年のソルトレーク、’02年の長野とオリンピック2大会に連続してアルペンスキー日本代表として出場しました。それだけでなく世界選手権で入賞し、さらに抜群の体力と運動センスを生かしてゴルフの世界選手権にも出場するマルチプレイヤーぶりなのです。現在も健常者に混ざって全日本スキー選手権大会に出場し続ける脅威のスポーツマンといえるでしょう。

 オーストラリアのどこを走っても、すれ違う人々の誰の目をも驚かせ、勇気を与え、感動させたテツが、このときは車中でおとなしく眠ってばかり。

 92kmを走りきり、ひっそりとしたクータマンドラに午後3時に着きました。総走行距離は4712km。シドニーまではついに残り約500kmです。

次へ▶

10月11日(日) アウトドアで美味フランス料理

パルミジャーノ・サラダ
プロバンス風パスタ・サラダ
ジェリーと十八番のココナッツケーキ。
アウトドアの食卓はナゼか気分が盛り上がる。

 朝から雨が降り、珍しくテツが熱を出した。この日は軍の町(メインストリートに昔の戦車と戦闘機が展示してある)ウォガウォガで休暇。

 朝食前にチェリーがパンとバナナとチーズを持って冗談を言いながらキャビンにやってきました。フランスで4軒のレストランを経営する“プロ”である彼のおかげで、我々の食生活は毎日充実しているのです。

 現在65歳のチェリーはアフリカのモロッコ生まれ。11歳のときに家族でフランスのマルセイユに移住。冒険旅行が大好きで、アフリカ全域に及ぶ車の旅は走行距離100万km以上。パリダカには14回出場していて、ポルシェとプジョーのワークスチームから出たこともありました。

 旅慣れた彼の作る食事は多彩です。この日も「プロバンス風パスタ・サラダ」と「パルミジャーノ・サラダ」と2種類のサラダ。そこにパンとコーヒー、紅茶を添え、デザートも忘れません。ココナッツケーキは定番だし好評です。すべて材料を吟味した本格的な料理。毎日激しい運動はするものの、美味しすぎて食べ過ぎるのが困ります。

次へ▶

10月10日(土) コンバインが生まれた町

快晴の空の下、のんびりした景色の中を走り抜けます。コンバインがこの町のアイデンティティ。世の中にはいろいろな町があるのだな、と感心しました。

 この日は標高200〜300mの高原の道を130km進みます。空は素晴らしく晴れわたり、景色も緩やかなアップダウンを繰り返す牧歌的なもの。ただし交通量は以前とは比べものにならないほど増えました。シドニーとメルボルンを結ぶ流線型の特急列車もよく見かけます。

 高速道路を車で飛ばせば5〜6時間でシドニーに着くという地点まで来ていますが、自転車ではまだ1週間はかかるでしょう。ここまできたら焦らず無事完走することを考えるしかありません。

 昼に寄った「HENTY」という小さな町は、売店のオジサンの話によるとコンバイン(穀物を収穫する機械)生誕の土地らしいのです。そういえば町の入口にコンバインの絵が書いてありました。

 午後3時30分に目的地のウォガウォガに到着です。走行距離は148.9kmでした。

次へ▶

10月9日(金) こんどはグレートな「山の道」

ユーカリの並木が続くグレート・アルペン・ロード。ビーチワース・ベーカリーはお客さんで大混雑。さすが人気店です。

 オーストラリアでどこにでもいる鳥といえば鳩に似た「ガラー」、白黒ツートンの「マグパイ」、そしてギャーギャーと鳴き声がケタマしい「コカツー」の3種類。山間部に入ってコカツーが集団で飛んでいるのをよく見ました。

 進む道は有名なスキー場Mt.バファロー方面につながる「グレート・アルペン・ロード」。グレートな「海の道」の次は「山の道」のようです。

 Beach Worthという小さな町でオーストラリア中が注目しているというパン屋さんに寄りました。20年前に3人ではじめたという「ビーチワース・ベーカリー」は、品物の良さもあって年間売り上げ5億円の人気店になったのです。今や従業員も75人に増え、お店も2軒に増えました。創業者は「パンを売るのではなく街を売れ」という徹底した地域のサーバー・カスタマーとして評価されているようです。

 夕方、4つ目の州となるニューサウス・ウェールズに入りました。この日の走行距離は137.2km。

次へ▶

10月8日(木) 下りの“弾丸男”

救急隊員のバッグに入っていた薬の多さにビックリする一同。竹中先生の下り坂のスピードは驚異的です。だれもついていけません。

 朝、隣の部屋に泊まっていた地元の救急隊員が出かけようとしていたので、我々の「運動器の10年・世界キャンペーン」の話をしたら、非常に興味を持ってもらい会話が弾みました。彼らの日頃やっている救急活動の内容もいろいろと聞けたのです。

 彼らの救急業務は日本のそれとかなり違って、現場での初期治療が日本なら医師が行う範囲まで及んでいるということ。竹中先生によると迅速な現場の責任を重視する文化と、それを背景とした法律の違いがあるというのです。「持っている薬の数がスゴい。静脈注射まで責任持って対応している点が日本とはまったく違う」

 ブルー・マウンテンに向かって北上する内陸ルートは、想像以上に山ばかりでした。そして地図では「湖」となっていた場所が実際には「涸れ野原」だったのです。でもモーテルの看板は「LAKE INN」となっていて、なかなか違和感がありました。

 一方、2日目の竹中先生は好調な様子。上り坂ではゆっくりなのに、下り坂では持ち前の体重を生かして、手がつけられないほど速く走るのです。そこでついたあだ名が「鉛の弾丸男」(このときあだ名のことは本人は知りませんでした)。

 この日の走行距離117km。トータルで4363km。シドニーまであと少しです。

次へ▶

10月7日(水) 自然に接して生きるということ

出発直後のメルボルン郊外は通勤ラッシュで大渋滞。坂道には慣れているつもりでしたがハードでした。
生活用品の配給所で山火事当時のくわしい話を聞きました。

 

 メルボルンを出発しました。いよいよシドニーまで残り1000kmになりました。この日の空は南風が強く荒れ模様。

 伴走ドクターはこの企画のために日本で密かにトレーニングを積んできたという竹中先生(48歳)。学生時代には四輪ラリーの経験やオフロードバイクのエンデューロで優勝したこともある(昔の)強者です。

 ハイウエイを通行できない自転車の我々は海沿いの幹線道路は避け、内陸を北上してシドニー西側の「ブルー・マウンテン」から市内を目指す計画。

 この日の山場は標高900mのブラック・スパーと呼ばれる峠越え。これまで経験してきた数々の難所を上回るキツさと聞いて、覚悟して挑みました。そして喘ぎながら峠はなんとか越したものの、あまりの寒さに驚きが隠せません。地元の人の話では1週間前に70cmの大雪が積もったらしいのです。

 厳しい気象という意味ではメリーズビルという村の場合、夏は46度、冬はマイナス16度くらいになるそうで、山火事も多いため現在の村の人口は100人以下になってしまいました。美しい自然の中で生きていくには大きなリスクも背負わなければならないようです。

 午後6時、138kmを走ってアレキサンドラの村に着きました。

次へ▶

10月6日(火) すごい病院を見学しました

ICUのスタッフと話す松下教授たち。素晴らしい施設とスタッフに圧倒されました。最後に正面玄関で全員そろって記念撮影。

 ここメルボルンでアデレードから1100kmを共に走ってくれた生越章先生が、東京からやってきた竹中信之先生(帝京大学付属病院・イリザロフ法専門医・48歳)にバトンタッチします。

 メルボルンに滞在するこの日は2人の先生と共にThe Alfred Hospital(ザ・アルフレッド・ホスピタル)というオーストラリア唯一のトラウマ(外傷)専門の病院を訪ねました。

 そこは1階にコーヒーショップをはじめ本屋、花屋、洋服屋などの軒が連なっていて、まるでショッピングセンターのよう。2階のICU病棟から道路に向かって大きくせり出したヘリポートには、5機のヘリコプターが待機。完全24時間態勢で300人の専任ナースが配属し、45床のベッドを有するICU。うらやましいほど完璧なシステムです。

 訪問後に生越先生は後ろ髪を引かれる思いで帰国されました。以下は先生が残したメッセージの一部です。

 「あっという間の10日間でした。(中略)忘れられない思い出でいっぱいです。アルフレッド外傷センターでは理想的な救急システムに衝撃を受け、日本にも同様なものが必要であることを痛感しました。しかし何より感動したのは、障害を障害として素直に受け止めながら、我々医師の想像を超えるパフォーマンスを見せてくれたみんなの走りです。(中略)医師として障害が少しでも軽くすみ、かつ十分回復できるような医療と医学の研鑽を続けていきたい(後略)」

次へ▶

10月5日(月) 複雑な気分とうれしい再会

朝日を受けてみんなで気分良くフェリー乗り場へ急ぎます。まさに大都市、メルボルンに着きました。

 朝9時にフェリーボートでフィリップ湾を渡るために早朝から乗り場へ向けて走ります。この日の目的地、メルボルンでは久しぶりに再会する松下教授、そして生越先生とバトンタッチする竹中信之先生の2人と落ち合うのです。

 オーストラリア第2の都市へ向けて走りだすと、これまでとは比較にならないほどの交通量となり自然と気が引き締まります。そして朝の冷気を受けて走る気分はまた格別。総走行距離も4000kmを越えました。

 乗り場までの52kmを2時間で走り(かなりキツい)、なんとか乗船時刻に間に合いました。今まで見るだけだった海の上にいる気分は上々です。

 約50分で対岸にあるソレントの街に到着。ここからメルボルンまで約90km。ランチはマックでもケンタッキーフライドチキンでもなんでも選べる大都会への道。なんでもあるのが嬉しいような悲しいような複雑な気分の一同でした。

 午後2時40分に無事メルボルンに到着し、松下教授と竹中先生に再会しました。待望のおみやげは柿ピーひとつ。

次へ▶

10月4日(日) メルボルンまで、あと少し

「Surf Coast」と呼ばれるサーファーたちの海はかなり盛況でした。どこから見ても美しいグレート・オーシャン。壮大です。

 「自転車にとっては最高の気分ですね」この日と翌日が最後の走りとなる生越先生が言うように、晴れわたる空の下、気温も温かくさらに追い風という抜群のコンディション。右手に海を眺めながらグレート・オーシャン・ロードを走ります。この道は1919年に第一次世界大戦から帰国した軍人によって市民の募金で開通させたもの。総延長250kmの道のりは、その景観の素晴らしさからオーストラリアを代表する観光資源です。

 青い海を見ながら走る気分は格別です。内陸を走りに走って海に出たときに込み上げてくる歓喜のような感情は不思議なもの。山育ちを自称する風間隊長にとっても例外ではありません。「きっと、それは人が海から来たから?」そんなシンプルで純粋な発想になるのは車上の旅人だから……でしょう。

 この日は混み合うサーファーたちのメッカを通過しつつ、海沿いのワインディング・ロードを90km走りました。「MELBOURNE 103km」の看板が見えました。オーストラリア第2の都市までもう少しです。

次へ▶

10月3日(土) 海沿いの町で休みとなれば

美しいアポロベイの町。海沿いのおだやかな景色です。身体にムチ打って釣りに興じた風間隊長は見事に太刀魚を2匹ゲットしました。

 この日は休み。前日にハードな上り坂をクリアしてきたメンバーにとって、うれしいクールダウンです。中でも最年長の風間隊長は朝、ベッドから起き上がれないほどの全身筋肉痛でしたが、みんなの視線を意識して普通に振る舞っていました(……)。

 冬の人口800人という小さな町のキャンプ場から見える景色のすべては海。その遥か先には氷に閉ざされた南極大陸があります。

 そんな場所で休日をもっとも楽しんだのが、痛いはずの腰をおさえながら竿を片手に海へ出かけた隊長でした。

次へ▶

10月2日(金) またしても上りばかり……

波立つグレート・オーシャン・ロードを軽快に走る一同。しかしこの後、連続する地獄の山登り(丘登り)が待っていようとは……。さすがのマサもついに自転車を押して歩きます。

 曇り空の下走ること1時間半。ポートキャンベルの急坂で、とうとうマサが自転車を降りて歩きました。パースからここまで3700km。その間、一度も降りることのなかった坂道でついに重いペダリングに耐えかねてしまったようです。「ついにやりましたね。とうとう歩いてしまった心境は」と風間隊長が意地悪くたずねると「うるさいな〜。もう、まいりましたよ」と苦笑い。

 マサは8年前、とある自動車メーカーの製造部門で働いていました。ある夏の日に工場内の重い部品棚が彼の上に倒れてきて、4、5、6番目の頸椎を損傷。一時は命も危なかったのですが、驚異的な体力、回復力で4ヶ月後には車椅子、7ヶ月後には松葉杖で歩けるほどに回復したのです。現在は左腕と左足にしびれが残り、歩行困難になるときも少なくありません。しかし日々仕事や趣味に忙しく、身体の不便さを乗り越えながらがんばっているようです。その彼が自転車を降りるほど、この日は急坂が連続していました。

 ここまでは景色を楽しめるレベルのハードさでしたが、標高はついに400mを越え、「上りの次は下り」という期待は恒例のように裏切られ続けたのです。外気温は9度。吐く息は白く、サングラスも汗で曇ります。風間隊長も辛そうですが「もし降りたらマサに何も言えなくなる」と、力を振り絞りました。

 午後7時、アポロベイの町外れのキャンプ地にヘトヘトになりながらたどり着いたのです。この日の走行距離129km。

次へ▶

10月1日(木) 10月だけど「春」

釣りをする少年たちの足元までクジラが接近してきます。また、別の海岸ではアザラシの大群を発見しました。

 

 いよいよ10月に入りました。視界ではオーストラリアの明るい「春」の景色を感じながら、心では懐かしい日本の「秋」を思う複雑な感覚です。

 まずビクトリア州のメインルート「グレート・オーシャン・ロード」に向かいます。その途中の海でシール(アザラシ)の群生を見て、陸では待望のコアラと初対面しました。他にもカンガルーはもちろんワニ、クジラ、タスマニアン・デビル、そして新幹線のモデルにもなったカモノハシまで、オーストラリアの雄大な自然の中では様々な動物に巡り会えます。

 幸運な追い風を受けて、この日は138kmを快走しました。

次へ▶

9月30日(水) 青空の下、サキ完全復活

とうとうビクトリア州に突入です。元々鍛え上げられた肉体を持つサキは回復力も普通ではありませんでした。みんなひと安心です。

 西オーストラリアからはじまった旅もこの日で35日目。ついに3番目の州、ビクトリアに入りました。1年で一番美しい「春」ということもあり、出会う風景がすべて素晴らしい。ついキョロキョロしてしまいます。

 元気を取り戻したサキは声に張りがあります。一昨日の不調の原因は本人によれば「単なる食あたり。腐った牛乳飲んだのかも」と、まわりの心配もよそにケロリとした顔つきでした。

 高校時代まで陸上とスキーをかけもちしてどちらも全国大会まで出場した彼女。大学でスキー部のエースとして活躍していた20歳のときに「骨肉腫」と診断されたのです。目の前が真っ暗になりながらも、持ち前の明るさでその現実を乗り切りました。治療期間は2年。中学校の体育教師を経て現在に至ります。毎日平均100kmを走るこのチャレンジ中は、とくに寝る前と出発前にはケアとストレッチを欠かさず、左膝の人工関節に気を使っていました。

 この日は105.9kmを走り、午後3時30分にポートランドの街へ到着です。ここまでの総走行距離3545km。

次へ▶

9月29日(火) タンポポ街道は森林の中

カナダを思わせる森林地帯。チェリーのランチでみんな元気いっぱいです(カゼの風間隊長を除いて)。サキは元どおりエネルギーのかたまりのように走り出しました。

 

 晴れ。空に浮かぶデッカイ飛行機雲に圧倒されつつペダルを蹴り続けます。狭い空の下に住む日本人にはあまりなじみの無い大きさでした。

 いつものようにチェリーが作る美味しいキャラバン・ランチを食べた後、2日半の待機から立ち直ったサキが戦列に復帰した。以前にも増して元気いっぱいです。入れ替わりで、こんどは風間隊長がカゼでダウンしました。

 沿道には黄色いタンポポに似た、キク科の「ケープウィード」が一面に咲いています。2日ぶりに晴れ渡った青い空も気持ちよく、田舎の街道を行くみんなの気分はじつに爽やか。やがて道は松の森林地帯に入り、まるでカナダに来ているかのような気分になりました。砂漠、湿地帯、草原、そして森林地帯など広いオーストラリアはいくつもの表情を持っています。

 夕方4時にマウント・ガンビアの街に到着。この日は138km。総走行距離は3513km。シドニーまではあと1500kmとなりました。

次へ▶

9月28日(月) サキ、もう1日静養指令

美しい景色ばかりで気分も盛り上がります。このあたりの海ではロブスターがよく獲れるそうで、すっかり街の「顔」になっていました。

 前日、吐き気に続いて頭痛に悩まされて戦列から離れたサキ。生越先生の診断は「インフルエンザの可能性も否定できないし、体質(肺の手術)にも注意が必要なので今日1日は休養」とのことです。異国の地でハードな挑戦中の体調不良。彼女の様子は心配ですが、こんなとき医師の存在を何よりも心強く感じました。

 この日の道のりは新緑の草花が咲き乱れる草原、湿地帯、湖、そして海が連続する美しい風景ばかり。まるで国立公園の中を走っている感覚です。山の斜面で大きなカンガルー、広い牧場の中でエミュー、そして海の近くでウォンバット(ネズミに似た有袋類)にも初対面。生越先生も自転車を停めて大喜びで見ていました。

 毎日アグレッシブに走るテツの自転車はこの日だけで2回もパンクしました。彼は1本の足でちょっとした段差があっても飛び越え、草むらへの用足しでもスイスイ自転車で入っていきます。ただ、転ぶときは派手にやってしまうことも多いのですが、鍛えた身体にダメージはありません。

 肌寒い小雨の中を145km走って、夕方4時にLOBEの街に着きました。

次へ▶

9月27日(日) 釣れないのはルアーのせいじゃなかった

国立公園の美しい景色の中を走り抜ける。いよいよ本領を発揮した生越先生が先頭を走り、ペースメイキングしていきます。

 朝、サキが不調を申告。ローテーションから外れて静養させます。この日の宿泊地は南に101km行ったところにある「ポリスマン・ポイント(オーストラリアの地名ネーミングは単純なものが多い。ここもお巡りさんが駐在していたことが由来)」。みんな必死にペダリングしますが、前線の影響でしょうか向かい風が強く、速度が時速10km台に落ち込むこともありました。

 そして午後4時にポリスマン・ポイントに着きました。町にあったのはガソリンスタンドとモーテルがたったの1軒ずつ。

 海辺ということもあり、さっそく風間隊長は釣りに出かけました。モーテルのおじさんに「塩分が強すぎて魚はいない」と言われますが、「やってみなければわからない」と百発百中のルアーを使ってチャレンジしました。しかし残念ながら釣果はゼロ。実際にビックリするほど塩辛い海水だったのです。

 その帰り道、隊長はブッシュの中で草に足が引っかかって大転倒。昼間は勇ましく突っ走る自転車野郎も草むらではまともに歩けないのか……と、まさに“泣きっ面に蜂”の風間隊長でした。

次へ▶

9月26日(土) ヒョウまで降った誕生日

ずぶ濡れになって心も表情もドンヨリ曇っています。雨はいつしかヒョウに変わって我々を打ちつけました。

 南オーストラリア、サウスウェールズ、そしてビクトリアという3つの州の境を流れる大河、マリー川にかかる「マリー・ブリッジ」を渡りました。

 この日はアデレードの街を離れた直後から険しい山越えになりました。ヨーロッパのようなアップダウンのある丘陵地帯を行くと激しい風雨に襲われたのです。さらに雨は大粒のヒョウに変わり、過酷さは増していきました。

 気温は一瞬5度まで下がり、寒さが身にこたえます。日中でも8度までしか上がりません。景色もアデレードまでとは一変して、緑の色濃い丘陵、田園風景が続きます。つぎに目指すはオーストラリア第2の都市、メルボルン。

 注目の生越先生は最初は様子をうかがいつつ軽めに走っていましたが、乗り方に慣れてくるといよいよ本領を発揮。かなり急な上り坂でも、逆風でもまったくへこたれずにガンガン進んでいました。気を抜いていると、これからあおられそうです。

 午後4時過ぎにA1(プリンセス・ハイウエイ)に面するタイレムベンドの村に到着。そしてこの日は風間隊長の59回目の誕生日でした。

次へ▶

9月25日(金) 正田先生のバトンタッチ

どうやら自転車の猛者であるらしい生越先生(写真上)が到着。一方、正田先生(写真右)はアデレードから帰国します。お疲れさまでした。

 ここまで10日間一緒に走った正田先生が新潟からやってくる522生越章先生(新潟大学大学院・整形外科学分野・准教授・48歳)と交代します。仲良くなれたところでの交代はお互いに辛いですね。

 空港に到着した生越先生は以下のように話していました。「自転車は毎日欠かさず20kmは乗ります。とくに週末は県境の峠という峠をやっつけていますよ」自転車のウデはかなりのもののようです。

 以下は正田先生のコメントです。
「私の同行区間はセデューナからアデレードまでの約800kmでした。自転車は素人同然でしたが、みんなに引っ張っていただいてなんとか走れるようになりました。『このメンバーはみんな足では走れないけど、自転車に乗ったら健常者と変わらないよ』という風間さんの言葉に納得しました。みんなすごいペースで走るのです。それと同時に、普段私が気づかない障害者ゆえの不便さも遅ればせながら実感できました。

 無事に走り終えることを祈りながら、私は日常の診療に戻りたいと思います。この期間、私のフォローをしてくれた病院のスタッフに感謝します。(兵庫県立西宮病院 整形外科 正田悦朗)」

次へ▶

9月24日(木) 近代的なアデレードの病院

デパートのエントランスのようだが本当に病院なのです。多くの医師から歓迎を受けました。

 街の中心にある「ロイヤル・アデレード・ホスピタル」を訪ねました。同病院の整形外科学・外傷医学のメリック・J・シェハード准教授と獣医学・医学の専門医であるニック・ファッザラリ教授の2人が案内してくれたのです。

 院内はまるでデパートにいるような気持ちになるほど、あちこちがピカピカ。

 シェハード准教授は「オーストラリア・トラウマ協会」の会長。『近年の外傷医療のニーズの高まりを反影して、2016年には外傷専門の「トラウマ・センター」がここアデレードにも完成します』とうれしそうに話してくれました。どうやら施設はもちろん、従来の整形外科の範疇を越えた視点での取り組みを計画しているようです。2年に1回行われる情報交換のための国際会議で、イギリスやスイスで素晴らしい取り組みがあれば、すぐに取り入れて行きたいと意気込んでいました。

 医療にとってもっとも必要な態度は、と聞くと以下のように答えてくれています。「教育(トレーニング)、実践(現場、手術など)、研究(勉強)の3要素が最も大切」

次へ▶

9月23日(水) 街は美しく、心も穏やか

道端の麦畑がいつの間にかぶどう畑に。ついにアデレードの市街地に入りました。全走行距離が3000kmを越えます。

 日本を出発して1ヶ月、ようやく全行程の5分の3の地点となるアデレードに到着しました。人口100万を越える大都市、アデレードに近づくにつれて沿道にある畑の作物が麦からオリーブやぶどうに変わっていきます。そしてパースを出て以来2本目となる「ちゃんと水が流れている」川を何本も渡りました。豊かな水と肥沃な土地が大都市を支えている、という感じです。

 久しぶりにコンビニエンス・ストアで昼食。店内の窓側にある椅子に座り、サンドイッチをほおばりながら、言いようの無いうれしさを感じる風間隊長。自然がイイ、と他人に言いながら本当は都会に戻ればホッとする自分の二面性に困惑しつつも、住み慣れた「日常の重さ」もシッカリ自覚していました。人は忘れかけた大自然と出会って懐かしい「郷愁」をおぼえ、再び都会に戻って「日常」のうれしさを噛みしめる。どちらも本物だと隊長は話していました。

 午後1時30分、美しい街並みのアデレードに到着です。本日の走行距離98km。

次へ▶

9月22日(火) 沈んだ気持ちを救った「呪われた花」

はげしい水しぶきと泥水。1日中雨具を着て走ります。奥が正田先生。
これが「サルベーション・ジェーン」

 朝、サポートカーと自転車組がはぐれてしまい30〜40分のタイムロス。アデレードに向かうのはみんな同じなので焦らず目的地へ進めばいいのですが、そのとき走っていたテツ、マサそしてサキの3人は慣れない異国でのハプニングにかなり焦ったみたいです。

 合流直後に冷たくて本格的な雨が降りだしました。ここまで約1ヶ月間、本降りにはあわないでこれましたが、どうやらこの日はいよいよ1日中降りっぱなしのようです。雨は容赦なく降り続き、大型トラックの跳ね上げる泥水も頭上からかぶって濡れネズミ状態。口の中までジャリジャリします。

 このひたすら過酷なガマンの走りに耐えるメンバーを一瞬癒してくれるのが道端に咲く紫の花です。乾いた土壌の南オーストラリア州では「サルベーション・ジェーン(救いの野草)」と呼ばれる植物で、飢えた羊がこれを食べて命拾いすることから名づけられました。しかし、お隣のビクトリア州に移ると「パターソンズ・カース(呪われた花)」と呼ばれるのです。それはあまりに生命力が強いために周囲に植えた他の植物が育たなくなるから、という話でした。

 呪われた花に癒されながら134.7kmを走り、午後4時にセントビンセント湾に面するポート・ウェイク・フィールドの街に到着。ここまでの走行距離2926km。いよいよ残り2000kmです。

次へ▶

9月21日(月) 道のりも半分を越え

ポート・オーガスタの橋から出発。豪雨の中、全員で慎重に進みます。

 この日から南オーストラリア州の州都、アデレードまで南下します。上空には暗い雲が出て気圧は下がり気味。天気予報は雨だけでなく強風やヒョウの可能性もあるという最悪パターン。

 3台の自転車を5人で回し乗りするローテーションにも慣れ、チームワークに円熟度が増したメンバー。しかし予報通りの強風と豪雨には苦戦しました。絶対に事故を起こさない、が旅の第一テーマなので気を引き締めて行きます。

 午前10時45分にマサの乗る3号車がパンク。そういえば以前にパンクしたときもマサが乗っていました。「マサ、体重何キロ?」「え〜と、71kgかな」風間隊長は「かな?」という曖昧な言葉を聞いて「もっとあるな」と思ったそうです。とはいえ、総走行距離も2700kmを越えています。タイヤとチューブがかなり消耗していたのも事実です。

 昼食後は北西の強風が完全に追い風となり、漕がなくてもドンドン前に進む楽チン状態。午後4時には金、銀、亜鉛、鉛の船積み港として有名な「ポート・ピリー」の街に到着。その瞬間に豪雨が降り出しました。ラッキー!

次へ▶

9月20日(日) やはりスポーツマン

信号機のある交差点で止まりながら進むなんてパースの街並み以来です。数々の工場や行き交う貨物列車や車など、久々に忙しい人々の営みを感じました。そして「道幅いっぱい」のトレーラーにも気をつけて走らなければなりません。

 この日で5日目になる正田医師は「まともに自転車に乗るのはこれがはじめて」と言っていたわりには強く、みんなのペースに遅れていません。町のサッカーチームでプレイする現役選手という話を聞いて“なるほど”と思いました。

 正田先生の専門は「骨折治療」。スポーツ外傷もこなしながら、とくに骨折には自信があるそうです。参加した感想を聞いたところ「すごく勉強になっています。オーストラリアの大自然にも感動していますが、障害をこえて頑張るみなさんの姿、そして我々医師が意外に知らない治療後のリハビリに関する見識の広さや情熱には驚いています」とうれしいことを言ってくれました。今回のような病院以外での医師と患者の交流も大切ですね。

 頭上には青い空と白い雲。76kmを走ってポート・オーガスタの街に着きました。ここまで4戦4勝の釣りを試みた風間隊長でしたが、ここでは釣果がありませんでした。残念。

次へ▶

9月19日(土) 忘れた頃にやってくる

単調な景色に油断が生まれがちですが、今回あらためて慢心する怖さを考えました。

 サキがちょっとした段差でよろけて左足を打ち、顔をしかめました。気丈な彼女がそんな表情を見せるのは珍しいことなので心配しましたが、大事には至らずひと安心です。

左足の関節可動域が狭い風間隊長のために取り付けられた左側ペダル。ノーマルより13mm短いのです。
 それを見て風間隊長は昔、北極点に遠征したとき薄い氷の上にバイクの前輪を落とし、あやうく6500mの海底に落ちそうになったことを思い出しました。それは遠征も中盤を過ぎてバイクで表情を走ることに慣れてきた頃に起きたアクシデントだったのです。このときの教訓が「災いは忘れた頃にやってくる」でした。好調ゆえにアグレッシブになりがちですが、走るメンバーは全員何がしかの障害をかかえているので油断は禁物です。

 サキの人工関節は骨肉腫によるもので、左大腿骨に入っています。元々陸上選手だった彼女は、このハンディを克服するために筋力アップと左右のバランスを養うための精力的なトレーニングを続けています。

 テツは20年前の交通事故で右足を根元から切断。自転車は左足のみで漕ぐのですが、さすがアルペンスキーのオリンピック選手だけあって誰よりも強いのです。マサは7年前の事故で脊椎を損傷しました。自転車は左足に麻痺と痙攣を感じながら漕いでいます。そして風間隊長も5年前のパリダカ出場時にトラックと衝突して左足の膝、足首、指の3関節の可動域を狭め、膝蓋骨除去のために左足の力がほとんどありません。そんなメンバーゆえに、今一度おごらず焦らず、気を引き締めて走りました。

 この日の走行距離は106km。パースを出て以来の大きな街「WHYALLA」に到着です。

次へ▶

9月18日(金) “世界の小麦”を作る麦畑

「広大な」という表現しか見つからない、どこまでも続く麦畑。
途中で寄った町、Cleveで撮った公園で遊ぶ少女。

この日の宿泊地、コーウェルはマングローブの群生地。

 

 朝8時前に出発。この日も広々とした麦畑ばかりの景色が続きます。目的地への道はA-1(国道1号)を使った方が早く着きますが、田舎道のB-91を使ってコーウェルの海を目指しました。

 東へ進むにしたがって荒野や麦畑に区分けや境界線を示す有刺鉄線などが目立ってきます。交通量も非常に少なく、風景の美しさと静かさに“うっとり”です。このあたりの平均的小麦農家の畑の面積は2000hr。麦は1hrあたり2tの収量が見込めます。昨年の実績では1tあたりの売値は300豪ドル。つまり2000hrであれば120万豪ドル(約1億円)になります。あらためて世界の小麦マーケットへの影響力の大きさを実感しました。ただし天候によって収量は変わるので、毎年同量の小麦が出荷できるわけではありませんが。

 「まったく同じ風景。地球はどこに行っても、じつはどこか似た風景が展開している」風間隊長は遠くの広大な農地で働くトラクターの姿を見て、2年前に訪れたウクライナの大穀倉地帯を思い出したようです。

 午後3時40分、海に面する人口880人の街、コーウェルに到着しました。
キャンプ地はマングローブの群生する青い海に面しています。さっそく釣りに興じる風間隊長。アジとサバをかけ合わせたようなMULLETという白い魚を釣り上げました。そして数百メートル前方の海面には背中を光らせるイルカの群れも発見。海の自然も“濃さ”を思わせるオーストラリアの魅力です。

次へ▶

9月17日(木) 荒野の次は、どこまで行っても麦畑

麦を運ぶ運搬専用線路が大穀倉地帯を東西に走っています。そして村に必ずある巨大な貯蔵庫。

 どんよりした曇り空だが西の方は明るい。午後には晴れるだろうと期待して全員で元気いっぱいの出発。

 以前の荒野とは一変してセデューナ以降の景色は麦畑一色となりました。通過する村の真ん中に見えるのは巨大な麦の貯蔵庫。世界のマーケットに向けて麦の生産、輸出をするオーストラリア最大の穀倉地帯だけに大規模です。

 どこまでも続く緑の麦畑と青い空。みんなペダルを漕ぐのにもだいぶ慣れてきました。風間隊長の90度以上曲がらない細い左足にも筋力がみなぎっているようです。テツの1本足で自転車を漕ぐスタイルも普通に感じるようになりました。

 154kmを走り、夕方に「Wudinna」のキャラバン・パークに到着。この付近はオーストラリアの最高気温と最低気温を記録する場所だそうです。

次へ▶

9月16日(水) 農家にとって雨は死活問題

快晴が多い今回の旅。たまには暗い空の下を走るのも新鮮な気分です。そして初日を迎えた正田先生。

 朝、渡邉先生を空港まで送ります。この空港のターミナルビルが驚くほど小さい。敷地は成田空港ほどもあるのに、ビルは個人宅なみなのです。

 引き続きシドニーを目指す我々の仲間として正田先生が新たに加わりました。この日は93km先の「Wirrlla」という田舎町を目指します。スピードは最初のうちは時速20km程度で徐々に速くしていくこと、それから大きなトラックに驚いてフラフラしないように、と日本でほとんど自転車に乗らない正田先生に注意事項を伝えました。それというのも、三〜四重連結という列車のように走る大型トラックの強い風圧に巻き込まれて、過去に何人もの日本人サイクリストが尊い命を落としているからなのです。

 心配していた雨は小雨がパラつく程度でしたが、途中で大雨に変わりました。午後2時過ぎに到着したホテルのおばさんによると、まとまった雨が降るのは約2年ぶりとのこと。歴史的にも雨不足なこの土地で、大雨はまさに天の恵み。干ばつが続けば農作物はすべてダメになってしまうので、雨は農民の運命を握っていると言っていいかもしれません。聞いた話によると5年の間でうまく収穫できるのは1年くらいという低い確率。慢性的な雨不足と言えるでしょう。

 雨による漏電で停電にはなりましたが、この晩に降った雨の降水量は19mmとかなりの量で現地の人々は大喜びだったようです。

次へ▶

9月14日(月) 渡邉先生との別れ

セデューナの象徴でもある、青い海にかかる美しい桟橋。
エミューのマネがうまかった渡邉先生。もちろんニックネームは「エミュー渡邉」。

 パーティーの余韻を残した宿泊地を早朝に出発し、宿の7軒先から続く大草原をひたすら東に向けて走り出しました。75km進むと景色は荒野から一変。携帯電話も通じる“文化圏”セデューナの街に到着です。

 人口3500人の港に面したリゾート地。すっかり“荒野の人”になっていた我々には大都会に見えました。ここで16日間行動を共にした渡邉先生が新しいドクターとバトンタッチして帰国します。

 ここからは渡邉先生の言葉です。「約1400kmの行程で小さなケガはあったものの、みんな元気にセデューナまで走破できたことは、ひと安心です。メンバーは予想に反して元気で活動的な障害者3人と、いつも少年のような眼差しの風間さんという楽しい面々でした。ハンディキャップがあっても残された機能と能力を十分に鍛え、健常者と変わらないどころかそれ以上に行動的なメンバーと接し、私も触発されました。人間として貴重な体験ができたと思います。私の上司である甲府病院整形外科スポーツ膝疾患治療センター長の萩野哲男先生にこの企画を紹介していただき、休暇をとらせていただいたことで参加できました。この場をかりて感謝の意を表します」

次へ▶

9月13日(日) パーティーに乱入!?

デービッドさんもシドニーを目指して横断中。総走行距離はついに2000kmを突破!

 同じモーテルに宿泊していたニュージーランド人のデービッドさん(56歳)と次の町まで一緒に走ることになりました。走り出すとき、彼に我々の「ジェッタ」に乗ってもらうと、かなりアシスト機能に感激した様子。「これなら息子にピッタリだ」と本気で購入を考えているようでした。

 76km走って宿泊地の「Penang」に着きますが、一同はそこを通過して40km先まで旅のペースが速いデービッドさんに付き合い、別れてから町に戻ったのです。

 モーテルに入ると、ダニエルくんという青年の「21歳の成人を祝うパーティー」がバーで夕方から開かれると聞いて、我々も参加しました。パワーアンプmaxの大音量で生バンドのレトロロックが鳴り響きます。演奏に熱が入り、徐々に人も集まりはじめましたが、盛り上がりは今ひとつ。そこで風間隊長は「ここはひとつ旅人が!」と、会場のセンターへ出て踊りだしました。すると会場全体が大ウケ。そこからパーティーが盛り上がったのは言うまでもありません。

 まさに「旅の恥はかき捨て」ですが、当事者のダニエルくんを含めみんな楽しそうでした。

次へ▶

9月12日(土) 釣り好きの血が騒いで……

本当に釣れました。それも大物です。

 キャンプ地から南に20kmほど行ったところにある「Fowlers Bay」という海辺の町に出かけました。釣り竿を借りて投げ釣りかルアーでも、と思いましたが残念ながらレンタルは無いそうです。

 それでもショップの壁に数多く貼られた釣果の写真を見るかぎり、かなり魚影が豊富な場所なのでしょう。そう、ここは南氷洋なのです。

 自転車より釣りが好きと自任する風間隊長は、しばらくすると安い「イカ釣りセット」を買い、桟橋で糸を垂らしはじめてしまいました。セットといっても25mの糸とイカ用のルアー、そして浮きだけ。青く抜けるような空の下、「こんなので釣れるのかな」と疑心暗鬼になりつつ流しては引いてを繰り返します。

 しばらくすると、目がギョロリと光る2kgほどのイカが釣れました。「どこにいても釣りは楽しい!」天にも昇るほどという表現がピッタリな大喜びの風間隊長。その後も2杯のイカが釣れたので、この日の晩ご飯はおいしいイカ丼になりました。

次へ▶

9月11日(金) こんなに近くでクジラが見れるとは

入場料12ドルで親子クジラの様子が目前で見れる距離まで近づけるのです。そして1日に何回も出会うのが本物の“大型”トレーラーやトラック。巨大さは日本のソレらとは比較になりません。

 今日も暑くなるであろうことを予想してインナーを脱いで出発。午前10時で気温29度、午後には31度まで上がりました。薄着で正解です。

 途中でオーストラリア海岸公園のホエール・ウォッチングを体験。毎年5〜9月くらいに出産と育児をかねて暖かい入り江に寄るクジラを岸から観察するのです。障害者やお年寄りでもクジラの近くまで行けるように木製の渡り廊下が設置してありました。

 走っていると大草原の景色は再びユーカリの木が増えて森の要素が混ざってきました。風間隊長は90kmというノルマを走りきりアボリジニの住む町、ヌンドローに到着。この日の走行距離146km。ここまでのトータルは1938km。

 

 

 

 

 

 

次へ▶

9月10日(木) “生暖かい”北風に吹かれて

さんざん平原を走ってきたと思ったら、この看板。どうやらこれからが“本番”のようです。美しい夕日はナラボー平原の地平線に沈みます。

 朝、強い北風の中を進む。右手は広大な原野で左手はどこまでも青い海。疲れたときは原野より海を見る。気分的なことですが、これって人間の起源と関係があるのかも。

 トップを走るものがペースを作る。普段は後ろからプレッシャーをかけるサキをトップに据えた。結果的に隊長・風間はバテバテ。サキの方がわずかに速いのだが、それが長時間にわたるとかなりの差になります。遅れを挽回しようといつも以上に力走してしまった結果でした。この日は気温も33度とこれまでで最も高く、身体に当たる風も体力を奪います。これがさすがオーストラリアというか、北から吹いてくるのに生暖かいのです。

 「ナラボー国立公園」の区域に入ってから景色が変わりました。ひと際低い灌木と草だけの平原に。そして夕方、ようやくキャンプ地に到着。バテバテです。

 この日の宿泊は、その名も「WESTERN END OF THE TREELESS PLAIN」。

次へ▶

9月9日(水) ジェッタもそろそろ増し締め

メンテナンス中の
メンバー、スティーブ。
明日からまたコレで元気に走ろう。

 

 

 

 

 

 

 南に海を見渡す高台にあるキャンプ場「ユークラ」にて休養。新車でスタートした愛車「ジェッタ」も走行距離1600kmをこえたので、この機会に総点検です。疲れをとってリラックスするだけでなく今後の道中に備えます。

 整備をしつつ洗濯や散歩、他のキャンパーたちとのおしゃべりなどで、休日の時間はいくらあっても足りません。大きなトレーラー・キャンパーを車で牽引して旅するおじいさんやおばあさん達も多く、話は尽きないのです。

 夜は毎日、天空に輝く南十字星を見ながら眠りにつきます。

次へ▶

9月8日(火) 久しぶりの南極の風

山肌が低くなったと思ったら海の近くまで来ていたのです。丘から見るグレート・オーストラリアン・バイトは広く、蒼くどこまでも続く海。

 晴れ。午前中は北からの向かい風を受けてキツい走り出し。間近に迫る山肌を見ながら2時間走ると地平線上に青い海が見えてきました。この海の名はグレート・オーストラリアン・バイト。出発地のパース以来の海です。

 丘の上に出ると、そこは視界いっぱいに広がる青い海。大陸も大きいオーストラリアは海も例外じゃありません。この海の先はもう南極大陸。久しぶりに(風間は過去に2回南極へ遠征している)対面する南極からの風を直接受けて気分も上々です。

 西オーストラリアと南オーストラリアの境界線を越えて53km走ったところで、宿泊地の関係もありこの日は終了。走りはじめて15日目。ようやくメルボルンまで半分という距離まで来ました。

次へ▶

9月7日(月) 生きている動物を見るなら夕方

よく見ると原野の中にいっぱいのカンガルーがいます。路上で遭遇したトカゲをからかうサキ。

 エミューもカンガルーも出会うのは死体ばかり。そろそろ生きている動物が見たいメンバー一同。朝、旅人が連れている犬を見て「今日は会えるかも」と期待もふくらみます。

 この日は渡邉先生を入れて5人で3台を走らせ165kmをかせぐ予定。1人のノルマは100kmほどとハードですが、このところ全員が「ジェッタ」に慣れてきたのでそれほど不安ありません。

 午後、先行していたテツとサキが道端にいたトカゲを観察していたところに後続のマサが追突し、左足にケガを追ってしまいます。「単なる擦過傷ですが、全治2週間ですね」と落ち着いて処置してくれた渡邉先生。ドクターがいてくれる心強さを実感した一同でした。

 朝に“生きている”カンガルーとの遭遇を予感したのですが午後になっても見当たりません。黙々と走っていると、前方にゆっくり歩くエミューの親子が現れました。その後さらにカンガルーの親子も目撃。その後、2、3分で新たな7、8頭のカンガルーに出会い、続けて15〜20頭の集団にも。どうやら場所にもよるが野生動物を見るには夕方が良いようです。

 西の空が茜色に染まる6時過ぎに165kmを走りきり、捕鯨の村「ムンドラビル」に到着。ここまでの走行距離1524km。

次へ▶

9月6日(日) 違うタイプの自転車

トライアスロン世界選手権で40歳以上の人が出場するマスター部門の2位だったというロータリークラブの女性。電動アシスト自転車「ジェッタ」に試乗した後のご機嫌な笑顔。それにしても彼らのペースは速い!

 ここ数日の滞在地は人口0〜8人という「村」というより「キャンプ」といった場所。ほとんどがガソリンスタンドとレストラン、モーテルがパッケージになった旅人のオアシスを1家族が協力しながら運営している、という形態のようです。ナゼこのようなオアシスが点在するのかというと、1962年にパースで開催された大きなスポーツ大会をキッカケに政府が道路の整備と「サービスの拠点」の建設を命じたからだそうです。今でも様々なアスリートが多数立ち寄って英気を養っています。

 この朝は出発前にオーストラリア一周の最中であるロータリークラブの人たちによる我々の自転車の試乗会が行われました。ほとんどのメンバーは電動アシスト自転車が初体験。「ジェッタ」の漕ぎはじめに“グッ”とくる感覚を体験してニヤニヤしつつ、楽しそうに乗っていました。

 もちろんその後は日豪の合同ツーリング。8段変速ギアの我々に対してロータリークラブの自転車は21段変速。テツもサキも食い下がりましたが苦しい戦いだったのです。(リベンジは上り坂で!)

次へ▶

9月5日(土) 恵みの雨もすぐに大地が吸収

ナラボー平原を走る大型トラック。オーストラリアのトラック野郎も物流を支えて毎日走っています。ブロウホール(風穴)から吹き出す風はかなり強いのです。

 朝から強風が吹き土ぼこりが舞っています。本日は停滞日。やがて水たまりができるほど雨も降りだしました。カンガルーがその水たまりの水を飲みにきます。ここで生きるものにとって水は何物にも代え難い貴重品。乾ききった地表にはぬかるみすらできず、雨があがるとみるみるホコリっぽい大地へと戻っていくのでした。

 そんな雨の中、オーストラリア・ロータリークラブによる「メンタル・ヘルスケアー」キャンペーンのために、自転車によるオーストラリア一周を目指している人たちがキャンプ地にやってきました。彼らは今年3月にタスマニア島を出発し、メルボルンを経由して左回りに20000kmを走り10月にゴールする予定だそうです。各地で資金を募りながら参加者を集め、すでに1億円集めたというのですから驚きです。

次へ▶

9月4日(金) どこまでもどこまでも

 

146km続く直線道路に向けて出発! ひたすら続く真っすぐな道を進む。日本ではありえない経験です。このスケールの大きい直線を記念して清水市(現・静岡市)の友人からもらったハッピを着て走る風間。

 快晴。朝の気温4度、日中14度。「平原」という名前の印象からはかけはなれた上りばかりの道が続く。広々としたナラボー平原に入ってからというもの平坦な道や下り坂を走ることは少なく、無限に続くような上り坂を駆け上がっています。少しずつ高度も上がり、気温も下がりました。そしてこの平原はまだ東に1000kmほど続くのです。

 そして有名な146km続く直線道路に進入しました。行く手に蜃気楼が浮かぶような、ひたすら真っすぐな道。所々に車にひかれたカンガルーの死体が転がる景色はオーストラリアの現実そのもの。はじめて見るメンバーにとっては別世界ともいえる景色がひろがるのです。

 漕いでも漕いでも抜け出せない試練ともいえる直線道路は6時間かけてようやく脱出。

 今日進んだ距離151km。現在の全走行距離1224km。

次へ▶

9月3日(木) ナラボーの地はひたすら広く、そして寒く

ついに走行距離が積算で1000kmをこえた。ナラボー原野の夕日。走って疲れた筋肉は湿布を貼ってケアする。

 南極からの風の影響を受けるナラボー平原に入ってからだいぶ気温が下がりました(朝の気温2度、日中のが11度)。このとき日本は夏の終わりですがオーストラリアは早春なのです。

 8時40分に南北160kmに広がるキャンプ場(数年前まで羊の牧場だった)を出発。相変わらずゆるやかに上下するだけで一直線の道が続きます。

 ナラボーの中心地に入ってからは鼻が痛くなるほど気温が下がりました。周囲の原野からはユーカリの木がなくなり、背の低いトゲトゲの木や草が生えているだけの景色になっています。ひとりで走っていると心細くなり、郷愁の念がこみ上げるのをおさえられません。

 空に連なる雲の下が紅く染まる16時30分にキャンプ場に到着。全員走ることに慣れたせいか快調なペースです。「ここから先146km真っすぐの道」という標識が立っていました。この日の走行距離は124km。

次へ▶

9月2日(水) まだまだ5分の1未満

ラクダとエミューとカンガルーの飛び出し注意看板。これが道端に出てくると本格的に「オーストラリア」という感じです。どこに言っても大人気のテツはあらゆる人に記念写真をせがまれます


 様々な自然に直面しつつ思いを巡らせ、ひたすら今日の目的地へ向けて進む一同。360度見渡すかぎりの原野「ナラボー平原」の一本道を突き進む。

 右足1本で自転車を漕ぐテツはどこへ行っても人気者。宿泊地のキャンプ場に居合わせた多くの旅行者にモテモテで、記念写真をせがまれていました。恥ずかしそうに応じるテツは、あることを実感していたようです。それは、ありのままの姿で人に出会うだけで、少なからず人に生きる勇気と感動を与えられるということ。そしてそれは他のメンバーにとっても、障害を持ちつつも自信を持って生きなければならないという思いにつながってゆくのでした。

 この日の走行距離は101km。パースから850km、シドニーまで4000kmという位置。夜の空は大迫力。なにしろ星空と月明かりがスゴいのです。

次へ▶

9月1日(火) 旅に慣れたと思ったらパンク

道中に出現した湖はなんとカラカラに干上がった広大なドライレイク。そして今回の旅ではじめてとなる自転車のパンク。

 前夜に泊まった「Widgiemooltha」という町は70万分の1地図にも記載されている区間の距離表示の目安にもなっているところだが、実際の人口は3人で建物はたった1軒。この一家が引っ越したらどうなるのだろう……などと考えつつ出発。目的地は90km先にあるノーズマン。南へ行く道と東へ行く道の分岐点。

 やたらと続く上り坂に慣れただけでなく自転車の扱いにも慣れ、うまくなった一同は90kmくらいの行程であれば4、5時間で走破できるようになりました。この日も途中でパンク(なんとトレーラーと自転車の両方)というアクシデントに遭うも、道草、昼食も入れて午後2時にはノーズマンに着いたのです。

 

 街に到着してからトレーラーのパンク修理をしにタイやショップへ行きました。そこのオバちゃんに聞かれてこの旅の目的、そしてメンバー全員が何らかの障害を持っていることを話すと、かなり関心されて修理代をタダにしてくれたのです。オーストラリアであつい人情にふれたメンバーでした。

次へ▶

8月31日(月) 海まで下りばかり……ではない

この日から方向が変わります。まずは180km先のノーズマンへ向けて出発。そしたら最初は上り道の連続。まさに全員「聞いてないよ〜」状態。
 これまで1週間を共にした松下教授が帰国。朝はカルグーリーの金の鉱山を見学してから出発しました。再びメンバー全員でシドニーを目指します。ペースは180km先のノーズマンへ2日で着くスピードです。

 アシスト付きとはいえ自転車なので、少しの上り下りが乗り手の心にあたえる影響は少なくありません。やはり上りが続けばキツいのです。この日の午前中はまさにその状態。終わる気配の無い上りに全員が悪戦苦闘していました。標高400mのカルグーリーからまずは海まで下るのだから下りばかりという印象ですが、海に出るまでの距離は400km先。それだけ遠ければ当然上りも少なくありません。

 日中の気温は今までで最高の19度。午後0時40分に昼食。メニューは日本人の好物「サラダライス」とバナナ、そしてコーヒー。

 まだ陽の高い午後4時に本日の目的地「Widgiemooltha」に到着。走行距離は95kmでした。

次へ▶

8月30日(日) 新メンバー到着待ち

翌日に合流した渡邉義孝医師。サキに次いで若い34歳。毎週必ず自転車に乗って身体を鍛えているという頼もしい新メンバー。

 日本から渡邉義孝(甲府国立病院医師・34歳)の合流を待つため本日は停滞。

 カルグーリーは古い金鉱の街。人口3万人の割に人影が少ない。街の作りそのものが広いせいかもしれません。昼はMacストアへ行ったり洗濯をして、夜は翌日から渡邉さんと交代する松下先生の送別会で盛り上がりました。

次へ▶

8月29日(土) 南十字星の町のお祭り

カルグーリーのお祭りにて。数々の展示や出店など1日中楽しめそうな内容だったのに、ゆっくりできなくて残念。

 出発の前に年に一度のサザンクロスの町のお祭りを見に行く一同。1台6000万円もする大型トラクターやオフロードバイク、牧場運営に必要な用品が展示されたり、羊の毛を刈る実演も行われると聞くとすべて見たくなりますが、残念ながらゆっくりしてはいられません。数々の出店やロデオ大会などに後ろ髪を引かれますが、気を取り直してゴールを目指します。

 両脇にユーカリの原野が続く道を午前中に30km、午後に68km走破して“鉱山の街”カルグーリーに到着。途中で同じようにカルグーリーを目指して走っていたおじさんや、1992年に国内で自転車ロードレースのチャンピオンだったという人と(速すぎて一瞬)並走。偶然の楽しい出会いは旅の醍醐味でもあります。

次へ▶

8月28日(金) 出会いは旅の楽しみ

青い空と真っすぐな道がどこまでも続く。パイプラインを修理する作業員。気さくで素朴な感じのイイおじさん達でした。

 このところ晴天続き。気温は朝が10度以下だが日中は15度前後にもなる。日本を発つときは真冬の重装備も覚悟してきたものの、どうやら必要なさそう。

 先発のテツとサキ、松下先生は毎日快調に飛ばします。沿道の左右はナショナルパークの原野という景色が続く。道端に転がるオーストラリア名物の“カンガルーの死体”を発見。この先の深くなる自然とともに、数も増えそうです。

 

 途中、パースからカルグーリーをつなぐ水道管工事の工夫3人に出会います。彼らの力強い仕事ぶりに触発されるメンバーでした。

次へ▶

8月27日(木) 颯爽と走りはじめたものの…

尻の痛さをガマンしつつ走り続ける。オーストラリアの舗装は荒く、まるでヤスリみたい。約7時間走ってモーリン・ロックに無事到着。

 早朝、深い霧に覆われた人口700人の小さな町、ケラバーリン。総勢10名が行動するとなると、なかなか予定通りに事が運ばないものですが、予定通りの時刻に出発。チームには早くも協調性が生まれている模様。

 走行距離は200kmを超えました。他のメンバーは日常的に長距離を走っていますが、風間は未体験領域に突入。サドルに当たる尻の痛さは増すばかり。こればかりは慣れるしかありません。

 この日の目的地は145km先にある「モーレン・ロック」の一軒宿。スタート直後はゆとりがあって、身も心も風景と一体となったようで「自転車はなんて良いのだろう」と思ったりするものの、距離が増すごとに表情は硬くなります。

 彼らの自転車は平均時速が22km。平坦路の巡航速度は時速25kmといったところで、上り傾斜が1度つくと速度が約1.5km/h(2度なら3km/h)落ちますが、普通の自転車に比べれば疲労はずっと少なくて済みます。つくづく電動アシスト自転車の選択が正解だったと実感しました。アシストが無ければ150km近くも走れません。

次へ▶

8月27日(木) アサヒコムの連載がスタートしました!

オーストラリア横断がいよいよスタート
現地からつづられる隊長のレポートを読もう!

オーストラリア横断隊一行は、
予定通り22日に成田を出発、23日にパースに到着し、
25日より、自転車による横断をスタートいたしました。
今回も「アサヒコム」にてレポートを掲載しており、
第一回目の原稿がアップされましたので
バナーをクリックして見に行ってみてください。
http://www.asahi.com/car/aus/

次へ▶

8月26日(水) 南半球の空の下

 最初の宿泊地はパースから100km進んだところにある人口7000人の街、ノーザム。前夜にはまさに“降るような星空”を見て歓声を上げた一同でした。

昼食は先回りしたメンバーが作ってくれたおいしい料理。自転車の電池もチャージしてやります。
 オーストラリアは南半球なので日本人にとって珍しい現象が日常的におこります。たとえば太陽は北東の空から昇り、北西に沈みます。星座も珍しいものが多く、気温も南に行けば行くほど下がるのです。季節は日本が夏なのにオ−ストラリアは冬。他にも生態系などの違いに遭遇することもありそうで、メンバー全員が楽しみにしているようです。

 本日はノーザムからケラバーリンまで105kmを走ります。変わらぬ景色の中を長時間走り続けるシンドさを、はやくも実感する彼らでした。

次へ▶

8月25日(火) 目前に広がる大平原

これが5000kmの道中を共にするパナソニック「JETTER」。風間が使うものは左クランクが30mm短い仕様となっている。これによってケガした左足の少ない可動域でもペダルが漕げるわけだ。この「ジェッター」は5ahのバッテリーを主電源とする電動アシスト自転車。
 インド洋に面するパースの東端、「チャレンジ・ハーバー」を早朝5時30分に出発。いよいよシドニーを目指す長い旅がはじまりました。

 この旅には風間ら“乗り手”の他にサポート隊の面々が同行します。随伴するトレーラーは屋根に手作りの600wソーラー発電システム)を装備した特別仕様。ジェッターのバッテリーは、このパネルで集めたエネルギーでチャージします。

 幹線道路の朝の渋滞を抜けると、そこはどこまでも続く草原。走行中は右の義足を外すテツ(田中)は、左足1本で誰よりも力強く走り、つねに笑顔のサキ(今利)はペダルを踏むたびに音の出る人工関節を克服しながら走る。

 道はアップダウンを繰り返しながら、ほとんどまっすぐ。ある意味ハードな道中ですが、適度な疲労感と心地よい風を受けながら前進できるのは電動アシスト自転車ゆえの魅力。

 ここからは毎日平均100kmを安全第一で走り続けるのです。

次へ▶

8月18日(火) 出発直前の記者会見を行いました

隊長、参加者らの意気込みと共に
横断のパートナー「JETTER」も公開

8月22日の出発を直前に控え、記者会見が行われた。
会見では隊長の風間深志の他、参加者の今利紗紀と
『運動器の10年』日本委員会運営委員長である
帝京大学医学部整形外科主任教授 松下隆が出席し、
それぞれ意気込みを語った。
またオーストラリア横断に使用される
パナソニック製電動アシスト自転車
JETTER(ジェッター)も併せて公開された。

次へ▶

8月17日(月) バイクジャージのデザイン決定!

このジャージを着てオーストラリアを走り抜けます!

オーストラリア横断中着て走るバイクジャージのデザインです。各後援企業様のロゴと「TRANS WORLD AUSTRALIA BICYCLE CARAVAN 2009」のロゴが引き立つデザインです。

次へ▶

8月17日(月) 参加者プロフィール

一般参加者とサポートドクターのプロフィールです
応援よろしくお願いします

いよいよ8月22日の出発が近づいてきた。一般参加者3名の参加者も既に決定しており、これに風間が加わり2チーム編成でゴールを目指す。またサポートドクター5名も行程ごとに担当し全行程をカバーする。以下は一般参加者3名プロフィールとサポートドクター5名のプロフィールです。

【一般参加者】
●今利紗紀(いまり・さき)
1983年7月29日生
神奈川県横浜在住
障害者手帳4級所持 
障害名: 左膝関節機能障害(人工関節使用)
受傷年月日: 平成16年10月1日 骨肉腫により左膝人工関節置換術施行
その他転移再発により両肺の手術もしている

●田中哲也(たなかてつや) 36歳
札幌出身
障害:片大腿切断, アルペンで長野オリンピック出場者ゴルフをやるなど活動的で,現在,自転車にはまっている

● 山崎昌範(やまざき・まさのり) 47歳
大阪出身
自動車工場の勤務先に負傷。
左手、足に痺れと硬直、けい性麻痺あり。  
足は、麻痺が非常に強く足首の固定が悪い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【サポートドクター】
第1行程
● 松下 隆(まつした・たかし)
1949年生まれ
勤務:帝京大学医学部整形外科主任教授、『運動器の10年』日本委員会運営委員長

第2行程
●渡邉 義孝 (わたなべ・よしゆき) 34歳
勤務: 国立病院機構 甲府病院 整形外科 (山梨県甲府市)
自宅: 山梨県

第3行程
●正田 悦朗 (しょうだ・えつお) 52歳
勤務: 兵庫県西宮病院 (兵庫県西宮市)
自宅: 神戸市須磨区

第4行程
●生越 章 (おごせ・あきら) 47歳
勤務: 新潟大学大学院整形外科 (新潟市中央区)
自宅:  新潟市中央区

第5行程
●竹中信之 (たけなか・のぶゆき) 47歳
勤務:帝京大学医学部整形外科 (東京都板橋区)
自宅:東京都

次へ▶