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6月4日(月)
 
沖縄県(最終日)の第1走者はゼッケン105の新城直希(しんじょう なおき)さん(41才・左大腿切断・一昨年に続いて出てくれました)です。   沖縄最後となる第4走者は新垣貴乃(あらかき たかの)さん(30才・左膝下切断・健常者の社会人チームでバレーボールの選手)として活躍しています。
その前を走るのは、普天間朝上(ふてんまちょうじょう)先生(琉球大学整形外科医局長)、大学の自転車チームのエースです。
そして後ろをサポートするのは、今回の沖縄ゴールの総まとめをして頂いた琉球大学整形外科の金谷文則(かなや ふみのり)教授です。自転車・スキー、何でもこなすスポーツ万能の先生です。一昨年も大変お世話になりました。
 
那覇市内は大変な交通量ですから、慎重にゴールを目指しました。   豊見城市(とみぐすくし)「美らSUN(ちゅらさん)ビーチ」に展開する南シナ海の青い海を見ながら、午後4時40分ついに嬉しいゴールを果たしました。
 
豊見城市の宜保(ぎぼ)市長はじめ美しいミス沖縄のお二人など沢山の方々のお出迎えを頂きました。
3000kmを走り終えた気分は何とも爽快です。
皆様長い間のご声援、本当にありがとうございました。
 
6月3日(日)
 
クイーンコーラルの甲板上で、みんなで「やったー、沖縄!」です。   沖縄北部の町・本部(もとぶ)の港で出迎えてくれた「本部受け入れ有志の会」の皆さんと、、。
 
本部の有志の会で開いてくれた三線(さんしん)付きのバーベキュー・パーティー。   夜遅くまで続いたパーティー。
6月2日(土)
 
桜島をバックに喜ぶテツ、そして坂本 勉さん(45才・右足切断)と日高先生(鹿児島大学整形外科)   途中に立ち寄ったクオラリハビリテーション病院の患者さん達と、旅の話をする風間深志
 
鹿児島市役所前で障害者ゲストと鹿児島大学の皆さんと記念写真です。   夕刻、クイーンコーラル8号で、いよいよ最後のステージである沖縄に行く。
6月1日(金)
 
午前10時、宮城県庁舎の正門から、多くの県の職員に見送られてスタート。走者は外山哲功さん(57才)   宮崎県の風景は、やっぱりパームツリーのストリートです。
 
歯を食いしばって坂道を登る小川 敬さん(53才・脊髄損傷)です。   第四走者は若干17才の少年、木下大輔くん。嬉しそうに坂道を下って行った。
 
今日はいよいよ九州最後の県となる「鹿児島県」に入りました。曽於市の光神小学校の生徒の全部(17人)が校庭に出て歓迎してくれました。  
5月31日(木)
 
日向駅前から今日も出発です。第一番バッターは吉田俊彦さん(44才)です。   三番走者の小川 敬さん(53才)
 
普段もコンビを組んでいろいろなレースに出場している小川さんと有馬さんだから連携プレーも息が合っている。   フェニックス・シーガイア・リゾートでの思いがけない歓迎パーティー。
 
ゴールは宮崎県庁の玄関前で福知事さんから激励を受けた。   最終ランナーの松浦正治さん(58才)。「いつも20km位走っているから平気でしたが、最初に今日は飛ばしすぎました」と笑った。
5月30日(水)
 
「道の駅・やよい」から沢山のお見送りをうけて,賑やかに出発。   大分県の最終走者となった佐矢野利明さん(24才・大分国際車椅子マラソンで優勝・脊髄損傷)と渡辺智樹さん(44才・レーサー歴16年)でした。
 
この日の午後、宮崎県に入りました。そして、そこで待っていてくれた宮崎の第一走者は矢野光孝さん(65才・脊髄損傷・レーサー歴20年)です。   とにかく宮崎の方々は心がとっても温かい。みんなで拍手と声援で応援する。
 
こちらは69才の津嶋廣美さん(レーサー歴31年・脊髄損傷)です。美しいフォームに注目です。   宮崎の初日のアンカーは高舘龍磨さん(60才・レーサー歴30年・脊髄損傷)です。ゴールの日向まで快走しました。
 
日向駅で大きな花束を頂いてご満悦の高舘さんでした。  
5月29日(火)
 
広い広い大分の海岸道路です。   今日の第一走者は、ハンドサイクルから車椅子レーサーに乗り換えた廣道 純さんです。
 
廣道さんから第二走者の城 隆志さん(52才)にタスキが渡される。   力強い城さんの走り。
 
第三走者は、またまた登場のハンドサイクルレーサーに乗る笹原廣樹さん(38才・北京パラリンピック・マラソン銀メダル)です。   今日のゴール「道の駅・やよい」で終わりの写真。本日の走行70km。
5月28日(月)
 
スタート後、31日目の出発は昨年も参加してくれた狩野草原さん(41才・お寺の住職・左大腿切断)です。今日の行程は大分・中津市役所までの21kです。   いや~中津市役所まで来てみてビックリ、驚きました。沢山の小学生、そして多くの市民の方々が僕たちを迎えてくれたのです。
 
いや~中津市役所まで来てみてビックリ、驚きました。沢山の小学生、そして多くの市民の方々が僕たちを迎えてくれたのです。   空気抵抗の少ない廣道選手の乗ったハンドサイクルレーサーはもの凄い速さで、国道10号線を60km「別府」まで走りました。
 
やっぱりパラリンピックの選手の頑張りはまったく違います。後ろからついて行くロードサイクルが苦しそう?   美しい別府の海をバックに記念写真。
5月27日(日)
 
小さな小さな無人駅「厚東駅」を,第一走者の田中秀夫さん(50才・アトランタ・シドニーのパラリンピックにマラソンで出場)にタスキを託して出発です。朝の9時です。   第二走者の松田佳子さん(30才・看護師)から,第四走者の丸谷美也子さん(34才・看護師)にタスキを渡します。二人とも「もっと自転車に乗っていたい!」と言って本当はタスキは渡したくないのです。
 
本州と九州を結ぶ関門橋の下を通過。   橋の上は通れない自転車は20円を支払って、海底に作られたトンネルを歩いて渡りました。その長さは800mでした。
 
九州に渡ると足立太佑くん(27才・足に障害を持っている)と九州大学の福士純一先生が待っていてくれました。これから九州の450kmの旅が始まります。  
5月26日(土)
 
江戸時代の城下町の津和野には今も多くの武家屋敷などがいっぱいある。そして、その屋敷の回りには錦鯉の泳ぐ水路が張り巡らされている。   5月26日(29日目)は津和野の街から73km離れた山口県の宇部市の郊外を目指しました。
 
津和野から急な坂道を上り、トンネルを抜けると「山口県」に入った。新緑が眩しい美しい高原でした。   途中の「長門峡」あたりでは、運良く土日曜日運行の蒸気機関車に出会った。凄い大きな車体と汽笛の大きさにビックリした。
 
今日のゴールは宇部より一つ手前の駅となる「厚東駅」。ここからはもう本州の終わりとなる下関まで、あと僅かです。  
5月25日(金)
 
5月25日(通算28日目)のお客様は、国立病院機構・浜田医療センターの田中孝明先生です。今日は93kmの道程を津和野までジョイントDrとして「雨」の中を走って頂きました。   国道9号線、浜田から益田市に向かう道は海岸線を上がったり下がったりする風光明媚な道でした。
 
美しい津和野川の清流を見ながら走る。   益田市からはかなりの山間部に入っていく。
 
夕方の5時、ようやく津和野駅に着き、田中先生も嬉しそうでした。  
5月24日(木)

 
朝9時、出雲駅をジョイントDrの今田敏宏(いまだ としひろ)先生(島根県立中央病院)を迎えて出発する。
 
美しい出雲の海をバックに走る。
 
気温はなんと27℃、暑かった~~。
 
途中の太田市では大和政信(やまと まさのぶ)さん(51才・脊髄損傷)が4kmタスキを繋いでくれた。
 
夕方16時、江津(ごうつ)駅にゴールする。
 
江津の駅前の広場で出会った江津の子ども達。BJDのバッチをもらってとっても嬉しそうだった。

5月23日(水)

 
スタートから26日目、島根県に入った。国道9号線。
 
島根県では島根大学の山本宗一郎(やまもと そういちろう)先生と看護師の馬庭祐子(まにわ ゆうこ)さん、そして障害者の代表となる石橋剛仁(いしばし たかひと)さんが一緒に走ってくれた。
 
田んぼの中を下校する島根県の子ども達。長閑な風景である。
 
島根県の第2走者を務めてくれた飯塚裕治(いいつか ゆうじ)さん(39才・脊髄損傷)
 
今日のゴールは出雲市役所の広場。飯塚(いいつか)さんを挟んで,万歳!
 

5月21日(月)

 
植村直己記念館が今日のスタートポイントです。
 
一緒に走ってくれるのは北田真平(きただしんぺい)先生(兵庫県立西宮病院・整形外科)と金山千広(かなやま ちひろ)さん(51才・左下腿障害)、堤 佑真(つつみ ゆうま)さん(20才・左足首機能障害)、田下倫明(たした みちあき)さん(32才・左下腿切断)の四人です。
 
豊岡市日高地区の小学校の可愛い生徒達は旗を持って熱い声援を送ってくれました。
 
真っ赤な自転車に乗って坂道を頑張る田下さん。後ろは北田先生。
 
ゴールは鳥取砂丘の広々とした丘の上でした。
 

5月20日(日)

 
宮津湾を望む大内峠からの5月20日スタート。
 
京都から兵庫に入って、僕たちを待っていてくれたのは兵庫県豊岡市の障害者と多くの皆さん達だった。
 
街のあちこちの沿道には「のぼり旗」を持った沢山の市民が応援に出ていてくれた。
 
市内を抜けて目指すは、あの植村直己冒険館です。
 
街中が応援していた森 晴大(もり はるた)くん(8才・右上肢形成不全)だ。お父様の応援と共に元気に走った。
 
植村直己冒険館に到着して、みんなで記念写真です。本当に沢山の皆さんが集まってくれました。ありがとう~~~!

5月19日(土)

 
福井県若狭町では「三方五湖ツーデーマーチ」が行われていた。互いの無事を祈ってGood Luck!
 
若狭湾を見ながら福井大学病院の先生二人は大喜び。いいな~、いいですね自転車は!としきりに言っていました。
 
京都に入ると竹中先生がジョイントDrとして来てくれた。格好いい!
 
福井県と京都府との県境のトンネルです。
 
宮津湾に出ると防波堤で親子が釣りをしていた。何釣っているんですか?「いやいや、たまにしか来ないんですがキスという魚です」とお父さん。
 

5月18日(金)

 
福井市の郊外に行くと、なだらかな坂道が始まった。
 
越前(えちぜん)町は山と海の町。トンネルも幾つもあった。
 
国道305号線は素晴らしい道でした。
 
越前海岸を見ながら追い風にのって快調に走った。
 
今日の走行距離は98km。みんなで一生懸命走ってゴールした。国道8号線を避け、県道365号線に迂回し越前海岸に出るとラッキーにもフォローの風が吹いていました。美しい青い海を見ながらガンガンとに走れて、敦賀、若狭へと着いたのでした。
写真は左から植村冒険館の小谷さん、そして土岐ちゃん、風間(私)、鯉江祐介(こいえゆうすけ)先生(34才・福井大学リハビリテーション部・スポーツ外傷)、西山克哉(にしやまかつや)さん(45才・整体師)、西山さん奥様、水上保孝(みずかみやすたか)先生(32才・福井大学リハビリテーション部)、そして亀井健太(かめいけんた)先生(30才・福井大学リハビリテーション部・毎週自転車に乗る)、北出一平(きたでいっぺい)先生(31才・福井大学リハビリテーション部・今回は車を運転して頂いた)、右端は植村冒険館の岡本さん。
 

5月17日(木)

 
朝の9時、多くの地元TVや新聞などの取材を受けながら、いよいよ今日も金沢駅前を出発です。金沢は広くて清潔な街でした。
 
金沢の郊外は長閑な田植えも終わった田園風景が一面に広がります。期待したMt HAKUSANは霞の中で見えませんでした。残念。
 
福井県の県境で待ち受けていてくれたのは福井大学病院の先生方四人でした。左からDr Sakamoto、Dr matsuo そしてDr Nonoyama & Dr Shimada です。
 
今日の天気予報は「雨」だったのですが、福井駅前に着くまではよい天気が続き幸運な一日でした。先生方四人も口々に「自転車最高!」と喜んで頂けました。

5月15日(火)

 
5月15日の糸魚川駅からの出発は雨の中でした。ゲストは前を走る小谷松豊さん(おやまつゆたか・45才・左半身麻痺・バイク店経営)と、後ろのサポートDrは新潟県立中央病院から来ていただいた高橋康人先生(たかはしやすひと・28才)です。国道8号線。
 
国道8号線に面する「道の駅・越後市振の関」で待っていたのは富山大学付属病院からやってきてくれた三人の先生。ここからは、この先生達が交代で富山の射水を目指します。
 
富山は美しい川の流れと自然がいっぱい。特に西の空にそびえ立つ「立山」(3015m)が最高です。
 
糸魚川から93km、雨の中を頑張って射水市にゴールの瞬間です。左から風間、辻野泰(つじのやすし)先生、長田龍介(おさだりゅうすけ)先生、そしてテツです。
 
ゴール後、やったね。
 

5月14日(月)

 
朝の8時30分、柏崎の駅前に集合した第一走者の音田 勉(おんた つとむ)さん(39才・下肢切断・市役所勤務・元長野パラリンピック選手)と奥様。会うと同時に「この脚は走れるの?」と障害者同士の会話が始まった。
 
柏崎の市街地はプリウスの先導で静かに通り抜ける。
 
さすがに元パラリンの選手の音田さん。柏崎~糸魚川間の81.5kmを難なく駆け抜けた。
 
ゴールの糸魚川駅に着いてみんなで”やったー!”

5月13日(日)

 
ゼッケンNo35,塚原心太郎(つかはら しんたろう)くん(5才・山梨県・昭和町)が新潟の第二ステージ(新潟市~柏崎市・85km)の第一走者。一生懸命頑張ってくれました。
 
心太郎くんから第二走者の小川哲弘さん(27才・義肢装具士)にタスキが渡された。
 
大きな応援の旗の前で、これをつくってくれた福島県只見町の目黒さん夫妻と記念写真。
 
海沿いの国道を快走。気持ちがいい天気だった。
 
右はキラキラと輝く日本海の海です。
 

5月12日(土)

 
新潟の二日目のサポートDrは古賀先生と村岡先生(共に新潟大学整形外科)でした。
 
延長210km、日本第10位の一級河川の阿賀野川を渡ると、今日のゴールも近い。
 
信濃川の水底を渡る「みなとトンネル」を越えたあと、今日の走者の佐藤公二さん(62才・左下肢不自由)と合流する。
 
65kmを走って新潟大学病院に無事ゴールした。
 
夜は当「運動器の10年・日本縦断キャンペーン」の報告会を大学構内の講堂で地元市民や病院関係者と共に行った。
 

5月11日(金)

 
目指すは49km先の村上市だ。
 
山形と新潟県の県境付近を走る。
 
繁野さんを迎え桑川駅からゴールを目指す。
 
今日のゴールを盛大に盛り上げてくれた村上総合病院の皆さん。
 
盛大な拍手に迎えられた僕たちは上機嫌だった。
 

5月10日(木)

 
札幌スタート後7日目、山形ステージは雨の中を出発。
 
まだまだ寒い日本海。気温は10℃でした。
 
ショッピングモールの軒先を借りて雨宿り。
 
ハンドサイクルで頑張った竹田道子さん(42才)
 
あつみ温泉に無事ゴールする。雨の中を本当にご苦労さまでした。
 

5月9日(水)

 
まだきてけれ!の五城目街の看板を後にして12日目の始まり。
 
今日から対面した日本海だが、明日からは毎日、右に見て走る。
 
象潟の夕日海岸で今日は終わり、、。
 
海に出会うとなぜか元気が湧いてくる。

5月8日(火)

 
キャンペーンの11日目 朝8時、大館市の桂城公園からのスタートです。
 
今日の走者は秋田大学の医学部の学生たちだから、大館市郊外の登りも競争になってしまった。
 
本日の第3走者はMachiko Taguchi (36才女性)。彼女は普段は病院に勤務するナースだが靱帯損傷をしていて近く手術を受ける。写真は沿道の地元の中学生に応援されて走る田口真知子さん。
 
ここ秋田市郊外は北緯40度の所。気温は15℃前後で自転車には最高の季節だ。広い広い秋田の平野をひた走る、

5月7日(月)

 
青森トヨペットで熱烈なエールを頂き、いよいよ本州編のスタートとなった(青森市~秋田・大館市)。
 
第一走者はアーチェリーの全日本チャンピオンの竹越美津代さん(45才)。わざわざこの日のために自転車を買って用意してくれたのだそうだが、PASに乗ってくれた。
 
その次は初登場のハンドサイクル。走者はテツの友人の四戸龍英さん(58才)。右手に岩木山を眺めながら気持ちよく走りました。
 
第三走者は一昨年も参加してくれた高橋幸治さん(38才・アームレスリングの世界チャンプ)。弘前から碇ヶ関までのかなりの坂道をものともせず走り抜いた。
 
途中の道の駅で沢山のエールを頂きながら、当キャンペーンのバッジとカードを配る。
 

5月6日(日)

 
長万部~函館間(通算9日目・札幌スタート後3日目)の第一走者は木幡 健さん(49歳)の車椅子レーサーだった。
 
木幡さんは速い。左手の美しい噴火湾を見ながら快調に走った。
 
第二走者は本庄一雄さん(53歳)、同じく車椅子レーサーだ。格好いいです。
 
函館までもう少しの距離になった。第三走者は、いつもは車椅子バスケットをやっているという山田行広さん(43才)だ。「気持ちいいです、最高の日ですね!」を連発しながら走ってくれました。
 
夕方17:30発の津軽海峡フェリー乗り場まで無事到着して、みんなでゴールの記念写真です。
 

5月5日(土)

 
本日は白老~長万部間の108km.。気温は7℃。 朝から昨日に続いて雨模様でした。
 
打ち寄せる白い波を見ながら海沿いの道を走る。
 
登別付近を行く
 
まだまだこれから先は長いが、マシンの整備入念に行うのです
 
今日は5月5日のこどもの日、長万部の郊外には空にいっぱいの鯉のぼりが泳いでいた。
 
北海道の二日目のステージを走ってくれたのは浅見 隆さん(76才)。元気いっぱいのおじさんに圧倒された。

5月4日(金)

 五日間の東北の被災地を巡ったプロローグランも終わって、いよいよ北海道・札幌市から沖縄・那覇市を目指す2500kmのBJD in JAPAN「障害者日本縦断駅伝2012」が、5月4日にスタートを迎えた。

 札幌の当日の気温は12℃と、以前から比べれば大分暖かくなったが、昨日までの晴天に変わって朝からの冷たい雨。そんな雨の中、札幌市ボランティアセンターの屋内の会場を使っての出発のあと、第一走者のRYOUICHI NAKAI (36才・左脚義足)さんがスタート。
一人が20km前後の区間を走って,次の走者にタスキを繋げるというスタイルで、この日は7人のランナーが100kmの行程を走り抜いた。

 こうして約一ヶ月後の6月4日の沖縄のゴールを目指すと言うものだ(途中出会った多くの方々に、各地でシンポジウムなどを通じてBJDの提言を伝える)

 
札幌市のボランティアセンターでの出発式の模様。
 
朝の出発風景
 
いよいよ第一走者の中井亮一さんが、サポートの医師などを従えてスタートする。
 
第二走者から車椅子レーサーが登場する。車椅子レーサーは自転車よりも坂道ではとても速いので,追いかけるのに苦労する。
 
札幌郊外の道はとても混雑している。車椅子レーサーに乗るのはHASASHI KATOさん、週末にはよく車椅子のマラソンレースに出場するそうだ。
 
これは,今回の日本キャンペーンのために作ったユニホームとタスキ(雨の泥で汚れている)。
 
この日の最高齢者の井上政一さん(72才)も元気に走ってくれた。
 

5月2日(水)

 
プロローグラン最後の青森県に入る県境あたりで「がんばって下さい!」と”おせんべい”を差し入れしてくれた地元の女性と。こんな激励が一番励みになる。
 
1998年の長野(スキー)と2008年北京(バレーボール)のパラリンピックに出場した坂本朋子さんにタスキを渡す。
 
青森県境に近い「道の駅はしかみ」から,プロローグラン最後の走者となる坂本朋子さん(元・パラリンピック選手)が走る。天気も最高、残るは18.2km。
 
八戸郊外を一生懸命にゴールを目指す坂本さんとサポートドクター。
 
サポートドクターの大石裕誉先生(弘前大学)と岩崎弘英先生(青森市民病院)。二人は自転車仲間でもある。
 
沢山のテレビカメラ、新聞記者に囲まれる坂本さん。流石にオリンピック選手だけに素晴らしいコメントだった。4/28に仙台をスタートし、本日の八戸までの422kmのプロローグランを無事に走り終えることが出来ました。ご協力いただきました皆様ありがとうございました。そして、この後フェリーに乗り、北海道へ渡る。札幌から那覇を目指す本編のスタートは5/4です。

5月1日(火)

 今日は今回のキャンペーンで最長距離となる釜石市~普代村までの117kmを走る。天気に恵まれすぎて気温は何と26℃。夏のような暑さの中での登り坂(10度の斜面)は何とも辛かった。

 三陸海岸を南北に走る国道45号線の、標高380mの最高地点をはじめとして、幾つもの峠を越えて走った。柔らかな山里に咲き誇る桜、時折渡る橋の上から見下ろす清らかな川の流れ。河床の石までが見える透明度に驚いた。信号はないし、風は爽やかだし、東北の春は最高だ。

 
田老の大橋(岩手県)
 
山深い岩手の山中を走る。
 
三陸海岸を南北に走る国道45号線。
 
元気に走る隊長の風間深志
 
岩手県/普代駅で我々を出迎えてくれたのは地元でチアダンスを習っている小学校5年生の女の子達。左から田島先生、三船萌ちゃん、上神田千尋ちゃん、中村泉ちゃん、赤坂玲美ちゃんの四人の仲間、そして僕。素朴で素直で可愛い女の子に出迎えられて、とっても嬉しかったです。
 

4月30日(月)

 
気仙沼の古い民家の前でテツ(田中哲也・42才・スキーのパラリンピック選手)と。
 
震災で気仙沼の内陸に打ち上げられた船を見ながら進む。
 
岩手県に入って第四走者の君崎さんを迎えて国道45号線をひた走る。
 
桜の咲く日本の風景(岩手県)を三日目のゴールの釜石を目指す。

4月29日(日)

 
プロローグランの二日目は、東日本大震災で大きな被害を受けた南三陸町の被災のシンボルとなっている「防災対策庁舎」から出発します。
 
沢山の慰霊の花束が置かれた南三陸の防災対策庁舎前から二日目のスタート切る。南三陸の町の現況はご覧の通りだ。第三走者は杉澤隆広さん(45才・左脚機能障害)、サポートDrは須田英明先生(東北大・整形外科)。ここから気仙沼のゴールまで40kmを走る(今回のキャンペーン中、一番の短さだ)が、アップ&ダウンは半端じゃない。
 
二十一浜をバックに気仙沼を目指し走る。ゲストは金野郁也さん。
 
気仙沼市役所にいたのは「琉球國祭り太鼓」の皆さんだった。今回の我々の最終ゴールは「沖縄」。何だかとても偶然とは思えない出会いだったので記念写真を一枚。ここまでは大した距離ではなかったが大変な登り下りの連続でした。

4月28日(土)

 いよいよこれから3000kmの日本縦断の旅が始まります。
先ずは東日本大震災の被災地を仙台~気仙沼~釜石~譜代村~八戸の440kmを巡って復興へのエールを送ります。

 その後にフェリーで苫小牧に渡り、札幌(中島公園)から本スタートを切って2500km先の沖縄を目指します。スタッフは僕をはじめとして手足に障害を持つ障害者が大半。
また、各地の整形外科のドクターがサポートで走ってくれます。

 「運動器の10年」の本キャンペーン中(4月28日~6月4日まで)、手足の関節,靱帯、筋肉、腱、などの運動器(機能)の健康(意識・関心の高揚)と、それらを支える医療(技術・施設)の向上を行く先々で啓蒙して回ります。
コースは北海道、青森、秋田など日本海側の20の道府県、各地でシンポジウムなどを行いながら自転車、車椅子、ハンドサイクルなどで走破しますので、応援をよろしくお願いします。

隊長/風間深志

 
快晴に恵まれ、宮城県庁の玄関前を沢山の方達に見送られて出発しました。
 
第一走者の庄司 元さん(県職員)から第二走者の金野郁也さん(右上肢、左下肢障害) にタスキを託す。こうしてタスキを繋げ、3000kmを走る。桜の咲く仙台市内を明るい表情で走りきった。ありがとう。
サポートDrは綿貫宗則先生(東北大・整形外科)でした。
 
桜が満開の仙台市郊外をゆく。
 
一日目の宿泊は石巻の田舎の民宿。素朴なお婆ちゃんが出迎えてくれた。

9月9日(木) 晴れて、四年目のゴールを踏む!

 最終ゴールのルンド市に向う国道108号線。テツ、正田、サキ(最後を飾る紅一点も参加)の四人に最終ゴールの瞬間が刻々と迫っていた。道脇にに立つ標識が「LUND 22km」から「LUND 10km」へと変わって、ゴールへのカウントダウンが始まった。何と、皮肉にも国道の108は、風間の6年前のパリダカ出場の時のゼッケン番号と一緒だった。108は自らが選んだ数字、28年前に日本人としてラリー初出場、総合18位を収めたラッキーナンバーが「81」だったことから、この数字を主催者にリクエストしたが、既に他に渡ってしまったとして思いは叶わず、その代わりに選んだ数字が108だった。ところが、思いもかけないトラックとの衝突事故。左膝から下肢にかけての複雑開放骨折、入院13カ月。以来、「より良い医療レベルの向上と、そのシステムへの取り組み」を願って、この世界キャンペーンへのお手伝いが始まったのだった。
 市内の環状線に入る。サキもテツも正田先生も黙々とペダルを漕いだ。”午後の三時きっかり、スカンディア・スターホテル玄関前”がゴールの約束の時間と場所だった。坂道を登り、ランナバウト(交差点)を右に折れて、真っすぐ、次は左へ、、、。焦る気分と高鳴る鼓動、何とも複雑な気分の中で、前方に見える景色がまるでスローモーションを見ているかのようだった。ここまでの四年間の、様々な思い出と期待と葛藤の最終ゴール。
 ホテルの正面が見えるコーナーを回る。玄関前で大勢の人たちが横断幕を持って拍手で出迎えてくれている。ルンド大学の学生、日本委員会の先生方、そして、この世界キャンペーンの提唱者であるリドグレン教授もいる。白とブルーのテープを四人で切った。花束をもらい、大きな拍手と喝采の中で、世界を駆け巡った「運動器の10年」の世界キャンペーン活動の旅は終わった(と同時に、自分の108番のゼッケンナンバーと共に始まった怪我による苦闘も、このゴールをもって終焉する気分だった)。
 動く「喜び」と動ける「幸せ」。運動機能を健康に保ちながら、アクティビティーのある健康ライフを送ることを提唱するこの運動の発展と、これらを支える外傷医療の発展を祈って止まない。

 **今回のキャンペーンに参加してくれたメンバー・スタッフの感想などにつきましては次回にご報告いたします。

 
今日は42kmを走って最終ゴールだ(上)。ルンドまで10km。国道108号線の番号は僕が怪我を負ったパリダカ出場の時のゼッケンナンバー。
 
運動器の10年日本委員会の松下先生、そして一人置いて山本先生、国分先生の重鎮お三方(上)。ホテル前のゴールに向かうテツ、サキ、私、正田先生の四人。
 
四人で手を組んでゴールした(正田先生は少し遅れました)。
 
BJDの会場に入った正田先生。100カ国近い国旗の中から日本を見つけて「到着しました!」のポーズ。
 
このキャンペーンの言い出しっぺのリドグレン教授に「よくやった!」と言われて恐縮した(上)。テツも教授と国分先生と記念写真。
 
風間、リドグレン教授と松下隆教授(本隊の総指揮官)の三人で。
 
皆でスウェーデン語の”タック!”(ありがとう)と言いながら記念写真を撮った。
 

風間


9月8日(水) ルンドの手前40kmに到達。

エデンベルガのモーテルを出発して細い道路を走行。約80km走り、カゲロッドの街に到着しました。明日はいよいよルンドでグランドフィナーレを迎えます。

 
2009年のオーストラリア横断、今年の日本縦断に参加したサキとマサがアストープの駅で合流。明日のグランドフィナーレを盛り上げる。
 
木を伐採していた男性と。
 
田舎道を走る。
 

イケ


次へ?

9月7日(火) エデンベルガに到着。

スクレアからさらに南に約70km走行してエデンベルガに到着しました。今日は南風がとても強い1日となりました。風車が凄いスピードで回転しています。
ルンドでのゴールまで残すところ約110km・2日となりました。

 
ラホルムの街で出会ったデンマークからの観光客の皆さん。PASに興味を持って近づいてきた。撮影の前には試乗。「まるで背中を押されているようだよ!」
 
強風の中、前に進む3人。
 
のどかな道を走る。
 

イケ


次へ?

9月6日(月) スクレアに到着。

イエテボリから約120km南に走行して、スクレアという街に到着しました。南風が強い地域のため、アゲンストの風を受けながらの走行です。風車をよく見るようになりました。

 
イエテボリ市街を抜けていく。
 
学校の子供たち。
 
自転車・歩行者道路。
 

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9月5日(日) イエテボリに入る。

朝の気温は6度。イエテボリに到着です。ヨーロッパの特徴のひとつとして、日曜日は各種ショップはお休みしています。なお、本日から兵庫県立西宮病院の正田先生が合流し、ルンドまで走行します。

 
爽やかな秋晴れの日、イエテボリに向かう。
 
本日から走行を始めた正田先生(兵庫県立西宮病院)。
 
自転車道を走る地元の少年たち。
 

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9月4日(土) イエテボリまで50km。

タナムから約100km南下。お昼の気温は17度です。スウェーデン第2の都市、イエテボリまで約50kmの地点まで来ました。

 
青空。
 
ステヌングスンドの駅。
 
朝、ホテルからの眺め。
 

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9月3日(金) ついに最後の国境越え。

モスから南下すること約60km。スウェーデンへは大きな橋を渡って入国しました。パスポートチェックなどの審査はなしです。ついに当キャンペーンで最後の国を走ります。タナムに到着しました。

 
ノルウェーとスウェーデンの国境。
 
ルンドまであと1週間を切った。
 
オレンジの旗がドライバーからの視認性を高める。
 

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9月2日(木) オスロから60km南のモスへ。

オスロのような都会でも自転車専用道路がところどころ設けられています。ヘルメットを着用している人、していない人さまざまです。60Km南の街モスに到着です。

 
テツ。
 
モスの駅。

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9月1日(水) オスロに到着。

ノルウェーの首都オスロに向け出発です。川沿いの道をひた走り、オスロ市内に到達。ランナバウトが多く見られます。海沿いにある都市だけにハーバーには多くのヨットが停泊しています。

 
美しい景色を見ながら一休み。
 
オスロに入る。
 
自転車道路。
 

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8月31日(火) 山間部の道は続く。

冬にはスキー客で賑わうというウスタオセットをあとにします。ノルウェー東部、首都のオスロまではあと約260km。今日はヌールスンドという静かな街に到着です。

 
スーパーの前の駐車場で出会った年配の方々と松下教授。
 
湖畔の道を走る。
 
山間部は続く。
 

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8月30日(月) 山脈を超えていく。

キンサビックを出発してさらに標高の高い山間部を走ります。通過した最高地点は海抜1250m。テーブルトップ型で高原がしばらく続きました。また、10km北の氷河も見えました。ウスタオセットに到着です。ここの宿からも氷河が見えています。

 
7号線。氷河を右手に。
 
湖畔に佇む。
 
高原を走るテツ。
 
暗くて狭いトンネルを出る。

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8月29日(日) ついにベルゲンを出発。

ベルゲンを出発して早速東へ向かいます。道路が狭く、トンネルも多くありますが、自転車、歩行者専用道路や、迂回路が整備されていています。山腹に並ぶ美しい家々とそそり立つ山を眺めながらの走行です。

 
ベルゲンの港にて。左からイケ、松下教授、風間、テツ、ジャン・ポール。
 
ベルゲン市内を走行。
 
港の市場で働くウグルアイ人の方々。
 

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8月28日(土) 松下教授が合流。

スカンジナビア横断の出発を翌日に控えた今日は、細かな準備と休養をとりました。また、総指揮をとる松下教授が合流しました。

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8月27日(金) ベルゲンに着く。

風間、テツ、イケ、それから南米の一部の行程に参加したトシ(フォトグラファー)が新たに加わりました。またフランスからジャン・ポール(ドライバー)が参戦。ベルゲンからオスロ、ヨーテボリを通過してルンドに向かいます。夜に到着したため、作業や活動はなし。移動日となりました。

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8月26日(木) カナダを離れてノルウェーへ。

ニューファウンドランド島のディアレークからトロントを経由してノルウェーへ飛びました。5月22日から続いたアメリカ大陸でのキャンペーンを終え、ついに最終段階に入ってきます。

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8月25日(水) ニューファウンドランドを走る。

カナダ北東部にあるニューファウンドランド島でも美しい原風景のなか自転車を走らせました。ディーレクに到着です。

 
ニューファンドランド中部の山を背景に。
 
いたるところに小さな湖が点在。
 
川の流れも美しい。
 

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8月23日(月)・24日(火)道路が途切れるナタシュカンから。

カナダ北東部に位置するナタシュカンから先には道路が続いていません。早朝からボートに乗りニューファウンドランドに向けて出発。約250km先の小さな村に泊まりました。24日はさらに先のブランサブロンに到着。ニューファウンドランド島にはここから渡ります。

 
給油で訪れたアーリントンの村。
 
しっかりと船体に固定した自転車。
 
地図とGPSは手放せない。
 
夕暮れの中、間もなく目的地に到着する。

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8月22日(日) ナタシュカンに北上。

ボートでニューファウンドランドに行くための出発地点となるナタシュカンに車で移動です。ナタシュカンまで続いた道路はここで途切れます。ボートに自転車などを積んで翌朝早朝の出発に備えました。

 
ベー・コモーからボートを引っ張る。
 
自転車を積んで準備完了。チェリーの友人のご協力を得た。

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8月21日(土) ベー・コモーで盛大に迎えられる。

パラサイクル世界選手権が行われていたベー・コモーに到着。大会運営側のご協力のもと、レースのゴールラインで盛大に迎えられました。

 
メディアの質問に答える風間とテツ。
 
ベー・コモーに到着。
 
レースの模様。
 
ゴールラインで大きな歓声に入っていく。

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8月20日(金) ポワント・ルベルに到着。

北米で自転車に乗るのも残すところ2日。セントローレンス湾を望むポルトヌフ・シュル・メールを出発しポワント・ルベルを目指します。気温はすでにぐっと下がり、日中でも薄手のセーターが必要なくらいです。今日も針葉樹の中に延びる道路を北に走りました。

 
先のルート詳細をガソリンスタンドにある売店で聞く。
 
目的地のポワント・ルベルまであと少し。

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8月19日(木) ポルトヌル・シュル・メールに到着。

タドゥサックのキャンプ場を出て再び138号線で北上しました。アップダウンが多い一日となりました。また、池を多く見るようになりました。ポルトヌル・シュル・メールのキャンプ場に到着です。

 
この日もアップダウンが多かった。
 
ベーコモーまで138号線を北上する。

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8月18日(水) タドゥサックに到着。

サン・シメオンから138号線を北東に走ります。セントローレンス湾に注ぐ川を渡るフェリーに乗りました。小さな街、タドゥサックに無事到着です。

 
タドクサックへのフェリー乗り場手前で知り合ったトロント在住の日本人男性。
 
アップダウンが多い一日になった。

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8月17日(火) 川の北側に渡る。

リビエール・デュ・ルーでフェリーに乗り、セントローレンス川の北側(サン・シメオン)の街に渡りました。ベーコモーまで約200kmの距離です。

 
天気は昨日とはうってかわって快晴。
 
フェリー乗り場まであと一歩。

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8月16日(月) サン・ジャン・ポール・ジョリへ。

ケベックシティーを出発しました。132号線でセントローレンス川の南側を北上します。途中雷雨に見舞われましたが、無事サン・ジャン・ポール・ジョリに到着です。

 
レストエリアでカナダ西部ブリティッシュコロンビアから自転車で旅をしているマークさんに出会う。小学校の先生。一人でカナダ東海岸のハリファックスを目指しているそうだ。
 
セントローレンス川を左に走る風間とテツ。
 
レストエリアでお別れしたマークさんと数時間後に再開。
 
マークさんとお供していたのはメーガンさん。一行が出発する直前にレストエリアに入ってきていた。
 
キャンプ場に到達する2km手前で振り出した雨。
 
 

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8月15日(日) ケベックで休日を過ごす。

モントリオールに続いての休日です。午前中から全員でキャンプ場を離れて市内を自転車で回りました。

 
旧市街を自転車で走る。
 
旧市街からセントローレンス川を望む。

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8月14日(土)ケベックに到着。

ケベックはセントローレンス川の南にあるキャンプ場に到着です。

 
自転車道であいさつ。
 
休憩所でほかのサイクリストと会話。
 
ガソリンスタンドで、取材車マジェスティと。
 
 

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8月13日(金)フランス語。

モントリオールから北上を開始して2日目。「ボンジュール!」とよく耳にするようになってきました。キャンプ場の名前も2日連続でフランス語です。

 
ケベックへ向け北上。
 
モントリオールとケベックの中間(川の南側)に位置するヴィクトリアビルの街。正午過ぎでも気温は25度。
 
今日のキャンプ場には子供の遊び場がたくさんあった。
 
砂のジャンプ台を作って自転車で遊んでいたガブリエル君。

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8月12日(木)モントリオールを離れる。

病院訪問を含めて2泊3日で滞在したモントリオールを離れ、内陸部のサントゥージェーンに到着しました。

 
キャンプ場に着くなり仰向けになる。
 
インディアナポリスから走行を始めて今日が21日目。

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8月11日(水) F1のチーフドクターであるデニス先生と会った。

 トロントの病院に続いて、今日はモントリオールの病院を訪問。病院は街のど真ん中にある「Hopital du Sacre-Coeur de montreal」。病院の規模から言えば中堅クラスの病院(600ベッド)だが、トラウマに関する取り組み(モントリオール大学と提携)と実績においてはカナダでもナンバー・ワンの評価受けている病院。
 美しく閑静な住宅街の中にあった病院は1912年建設された古風な6階建の建物。ここで外傷(トラウマ)医療部門のチーフディレクターとHEAD OF SURGICAL DEPARTMENTを兼任しているロナルド・デ二ス先生に会うことが出来た。
 病院の表玄関にわざわざ出迎えてくれたデニス先生はフランス語をゆったりと話す、ダンディーで落ち着いた人柄。挨拶を交わした後、病院の奥に我々を案内しながら、先生は「貴方達のことはインターネットのサイトを見て知っていますよ」「ここに来る前にサニー・ブルックス病院を尋ねた事もね」「で、ここでは何について知りたいのかな?」と言いながら、先ずはレベル1のトラウマ(外傷)エマージェンシー・ルームに案内してくれた。医師の間ではここの部屋を”ホット・ルーム”と呼んでいて、三つのベッドを保有していた。ここで診たてられた患者は46のベッドを有する救急救命センター(年間3000人の実績)へ。SCU(サージカル・ケアー・ユニット)とICUは合計36ベッド。そして、ここで先生は言葉を強くして言うーー「我々、76人のトラウマユニットのチームが処置した患者の生存率(サバイバルレート)と精神的な社会復帰(サイコロジストによるクオリティー・ライフの実現)の実績はカナダでも、おそらく一番の実力です!」と、自信たっぷりの表情だった。
 その他にも、Q:この病院で誇れるものと言ったら何?と尋ねてみるとーー「この病院は毎年6月末に行なわれるフォーミュラー1のオフィシャル・ドクターチームとして、100人の医療チームを組織して協力しています」と、自慢げな顔。Q:病院と違いレース場における苦労などは?ーー「苦労なってないよ。コントロールタワーのてっぺんに座り、エスプレッソを飲みながらただ観戦していればいいのだから楽チンなものさ」と笑ったが、次に「我々はサーキットの診察ルームと病院のERを映像でつなぎ、ドライバーが病院にヘリで運ばれる以前に、ERでは患者の状態を把握出来るようなシステムを作っているんだ」と真面目な顔に。Q:これまでに治療したドライバーは誰?ーー「2007年の大会におけるロバート・クビサ(BMW・ザウバー・当時)選手。ヘリで運ばれたが、足の怪我は幸い軽い捻挫で終わった、、、。そして、それ以後は幸運にも何も起きていない」、、、。
 最後に、Q:今年が最後になる運動器の10年の活動はカナダでは上手く行ってる?ーー「国も委員会も上手くやってるよ」。Q:一般の人々に対する浸透度は上々?ーー「まだまだ、その意とする所は理解されていないと思う」。Q:「理解されていない場合、その弊害とは何ですか?ーー「病院は寄付によって運営されているから、理解されないとお金が集まらない。集まらなければ医療の進展が損なわれる」(ちなみに、病院に一緒に行ってくれたカナダ人のジョスラさん(65歳)に、今年は幾ら寄付したか?と聞くと、$500と言っていた)。Q:9月にスウェーデンで行なわれるBJDの総会には出席しますか?ーー「出来る限り顔を出したいと思うので、また会いましょう!」ーーでは、現地でお待ちしています。今日はどうもありがとうございました。
 再び、玄関まで送って来てくれたデニス先生。別れ際にQ:F1ドライバーの中で誰か友達は?ーー「ジャック・ビルヌーブ!」ーーーF1は世界中の人々の間で人気なのだな~と感心した。

 
エマージェンシールームで話すデニス先生。
 
6階にある先生の部屋で。

風間


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8月10日(火) モントリオールで走行なし。

この日はモントリオールでオフです。清々しい天気のもと、洗濯、いつものように料理、それからおのおの今後のため準備を整えました。明日は病院を訪問します。

イケ


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8月9日(月) モントリオールへ。

グランデ島を横断してモントリオールの南部郊外のキャンプ場に到着です。

 
キャンプ場に到着後、腹筋を鍛えるテツ。
 
ボーアルノアの街を走る風間。
 
グランデ島をぬけた直後。セント・ローレンス川を左に走る。
 
カナワク(インディアン保留地)の街を走る。

イケ


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8月8日(日) バインズビルへ。

2号線を北東に進み、バインズビルに到着しました。

 
チェリーがテツを押して出発。
 
ダートの道も。

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8月7日(土) セントローレンス川。

キングストンのキャンプ場を出発して南東に向かいます。2号線に乗るとその右手はセントローレンス川。川の反対側はアメリカのニューヨーク州です。ジョンズタウンに到着しました。

 
セントローレンス側を右手に走行。
 
立ち寄ったブロックビルの川沿いの公園で知り合ったご家族と。

イケ


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8月6日(金) キングストンへ。

オンタリオ湖と朝日が美しい湖畔のキャンプ場を出発してキングストンに向かいます。
クイント湾の南側の経路をとり、無事にキングストンのキャンプ場KOAに到着しました。

 
快調に走行する。
 
自転車に乗り始めて2週間が経った。所要時間が少しずつ短縮。

イケ


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8月5日(木) オンタリオ湖へ。

ライス湖の南から約15km南下してオンタリオ湖に沿って延びるKing Street(2号線)で引き続き北東へ向かいます。到着したのは、クイントウエストにある湖畔のキャンプ場です。

 
オンタリオ湖半の街コルボーンを走る。
 
ランチを摂った小さな街ブライトンのレストラン前にてスタッフの女性と。
 
自転車専用レーン。
 

イケ


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8月4日(水) トロントを離れる。

トロントを離れてローズニースに向かいます。夕方にはスコールのような雨に見舞われましたが、100km以上を走行。ライス湖のほとりのキャンプ場で宿泊です。

 
のどかな田園風景が続く。
 
農産物の直売所の看板(左)と小川のせせらぎ(右)。

イケ


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8月3日(火) カナダはBJDの10年延長を決定!――トロントの病院を訪問

 カナダの3連休が明けた8月3日。今日は朝の8時のアポイントメントでトロント市内の病院を訪問をする。訪問先はBJDカナダ本部が紹介してくれた「ホーランド整形・関節炎センター」(Sunny Brook Holland Orthopaedic & Arthritic Centre)。同センターは本院となる「サニーブルック・ヘルスサイエンスセンター」(1940年からの歴史がある総合病院)の分院で整形外科の専門部門になっている。

 わざわざ正門にまで出て、出迎えてくれたのはBJDカナダのヘーゼル・ウッドさん(女性事務局長)と、この病院を代表するジョン・モナハン先生。それに本院からの女性ドクター二人、その他大勢の関係者たちに迎えられての訪問となった。対するこちらはと言えば、テツと私、それにスティールカメラを持つイケと、VTRを回すチェリーの四人だけだったから、何だか照れくさいやら、恥ずかしいやらの我々だった。
 玄関ホールに設けられた簡易レセプション会場。壁際には朝食にと用意されたコーヒーやジュース、パン、フルーツなどが並べられて和やかなムードだったが、先ずはBJDのヘーゼルさんによる我々の紹介、そして、病院を代表するモナハン先生の歓迎の言葉ーーと続けば、今度はこっちが謝意を表す挨拶の一つもしなくてはならない順番である(さぁどうする?)。どっこい。こんな事もあろうかと思って朝方、来る途中の車の中でイケに書かせた簡単な(と言っても20行くらいある)メッセージを大胆にも(時々ひっかかりながら)読み上げ、一応は恰好はつけた。ーー以後は、和やかな交流会(こんな時、会話を上手くこなせるかどうか?は英会話の力だけに、大方の日本人には中々難しい課題)。
 この病院とトラウマ(外傷医療)に関する事柄について、モナハン先生に聞いた内容は以下のようなものだったーーーーこの病院では年間2200件の関節手術(主に股関節、膝関節置換術、他、肩、肘など)を行なっていて、本院のサニーブルック・ヘルスサイエンスセンター(トロント大学、ヨーク大学、ライアソン大学と提携の総合病院で、循環器、外傷、がんセンター、周産期ケア、などで、北米だけでなく、欧州やアジアでも知られる大きな医療施設。トラウマ部門は特に有名)では、年間800件の外傷患者(16スコアー以上)を扱っている。エマージェンシーのヘリコプター(国との契約)は常に待機。救命センターのベッド数は4。ICUは50ベッド。

 当院では新しいケアモデルとして、新規の患者さんは看護師と上級理学療法士によるアセスメント(評価)を受け、手術が必要かどうかをチェック。必要であれば、整形外科医の診察を予約し、手術が必要でないケースはリハビリのプログラムを紹介したり、患者の住む地域でどのようなサービスが受けられるかを紹介する。上級理学療法士は、大学院レベルの教育を受けていて、医師と同じようにレントゲンを読んだり、患者の関節の状態を評価することができるよう訓練。この新しいケアモデルによって、整形外科医は手術に専念できるようになり、患者の手術待ち時間も短縮され、医療費削減にも結びついている。カナダは、アメリカや日本と違って(歯科、眼科、薬代をのぞく)医療費が無料=税金で賄われているため、「最低限の医療費で最高の医療を」「医療費削減」はいつの時代も政府の大きな課題になっている。
 ーーと、そんな訳で、その後は病院内をくまなくツアーして回って見せていただき、モナハン先生、BJDのヘーゼルさんとは9月のルンド(最終ゴール地で大パーティーがある)での再開を約束して病院を後にした。☆嬉しいことにカナダでは、今年の2010年以降も2020年まで「運動器の10年キャンペーン」は10年延長して実施することが決まったと言うことだった。

 
ホーランド整形・関節炎センターの建物。今、行っている「ギブ・インベスト・サポート」の三つの標語のキャンペーンをビルに掲げている。
 
左端は本院のDrベロニカさん、そしてモナハン先生、テツ、そしてBJDカナダを切り盛りするデボラさん。
 
病院のあっちこっちに「日本からこのような人たちが来る!」と言うビラが貼ってあった。
 
病院が新しく始めた患者用マニュアル・ブック。
 
リハビリ室で、実際にトレーニング法を教わった。
 
感謝の言葉を”読む”風間隊長。

風間


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8月2日(月) 休日。

カナダに入って2回目の休日です。自転車の整備や、今後のルート確認、食材の買出しです。

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8月1日(日) トロントへ。

スコットランドを後にした一行は、大都市トロントの郊外のブランプトンに到着しました。キャンプ場はトロント・ピアソン国際空港まで車で約10分の位置です。

 
朝、外に置いたトースターとコーヒーメーカーで朝食。炊飯器も所有。
 
アップダウンがあったほうが気持ちにメリハリで出る。

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7月31日(土) 小さな街で取材。

とにかくカナダも広いです。畑が広がる地帯をひたすら走ります。ノーウィッチで地元の新聞に取材を受けたあと、スコットランドという街に到着です。

 
取材していただいたジョンさんとそのご家族と。
 
サポートカーを整備していただいたご家族のみなさん。

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7月30日(金) 朝晩は肌寒い。

カナダに入ってから、朝晩が肌寒く感じられます。自転車にとってはすがすがしいひと時です。
エリー湖から離れてモスレーという街に到着しました。

 
エリー湖のそばの道路はさわやか。
 
エリー湖。

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7月29日(木) エリー湖。

電動アシスト自転車のバッテリーを交換しながら目的地のキャンプ場までGPSと地図で行くことに慣れてきました。エリー湖そばのモーペスに到着です。

 
風の向きは体力の消耗に大きく影響する。
 
地図をなぞってルートを確認。

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7月28日(水) 休日。

とはいえ、キャンプ場でおのおのパソコンに向かって作業や、食材の買出し、洗濯などであっという間に夜になりました。

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7月27日(火) カナダに入国。

デトロイトを通過し、カナダに入国しました。カナダでも病院を訪問します。

 
 

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7月26日(月)インディアナ州をあとに。

自転車組の風間とテツは、もちろん大量の水分を必要とします。サポート隊は買出しのたびに水をたくさん購入しストックしておきます。大きい国アメリカ。ガソリンスタンドで表示される販売価格は1ガロン(約4リットル)のもの。スーパーで売られる水も4リットルのペットボトルがあります。
今日の目的地、ヘイズ州立公園に到着しました。

 
道路わきで休憩するテツ。
 
ミシガン州に入る。

イケ
(撮影:白根全)


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7月25日(日)インディアナ州北部。

暑さにも慣れてきたように感じます。それにしても日が沈むのが遅く、21時になっても夜だとは到底思えない明るさです。

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7月24日(土) まずは基礎を固める。

2日目も猛暑のなか早朝から出発です。サポート隊が乗るキャンピングカーは遅れること2時間後に出発。自転車の出発から同行するカメラマンの帰りを待ち、キャンピングカーならではの後片付けを済ませると、スーパーへ買出しに。まずは生活のリズムを習得中です。
今日はアメリカとカナダでキャンプ場を展開するKOAに宿泊。

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7月23日(金) インディアナポリスを出発。

インディアナポリスでこの夏最も暑い日となりましたが、いざカナダに向けて出発です。
プロのダートトラックレーサーの古橋さんと奥さんのトーニャさんのご協力を得て、トーニャさんが勤めるアウトドアショップ「Rusted Moon」がスタート地点。まずは自転車専用道を走行し、約60kmで初日のキャンプ地に到着しました。

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7月22日(木) アメリカ・カナダ発。キャンプ場を巡る。

インディアナポリスからカナダにかけての移動(宿泊)はキャンピングカーです。
チームワークを高めて、より多くの人たちと知りあい、私たちの活動に耳を傾けてもらえるよう展開していきます。

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7月21日(水)自転車での新しいキャンペーン。

 オートバイで到達したインディアナ州に戻り、カナダ北東部まで続く自転車でのキャンペーンの準備をしました。各自に適したセッティングや、パーツの整理です。

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7月20日(火) ケンタッキー州で全米チャンピオンと走行。

 今日は、昨日訪問した病院の患者さんでもあり、自転車トラックレースの全米チャンピオンのカーティスさんとともにケンタッキー州ルイビルにある病院から自転車で走行しました。

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7月19日(月) アメリカで最初のトラウマ病院を直撃。

 キャンプ場の朝、もの凄い頭痛と吐き気に悩まされる。風邪を引いたのかも知れない?(キャンピングカーは夜中は寒く朝は暑いのです)が、どんなに頭が痛かろうが熱が出ようが、アポを取ってしまった病院にはどうしても行かなくてはならない。相手は偉い先生なのである。こんな時の隊長は辛いのだ。
 青色吐息の気分で病院の門を叩く。訪問する病院は同行の渡部欣忍(よしのぶ)先生が16年前に留学をしていたルイビルの大学病院「UNIERSITIY of LOUISVILE」。ここの整形外科のユニークな教授として名高いDevid Seligson(デビッド・セリグソン)先生を渡部先生は久しぶりに訪ねるのである。渡部先生はセリグリン教授のフェローシップ(トラウマの専門講座)を受講していた。右も左も分からないアメリカに、一人乗り込んで英語で授業をこなすのは孤独な試練と言ってもいい。それだけに思い出も深く、懐かしさも一入である。
 教授ルームはオフィス棟の3階にある。ここまで進入するのに何カ所ものセキュリティーを通過しなければならない。アメリカの社会はこの辺りが日本とは比べものにならないほどやっかいなのだ。教授とはAM9時30分のアポだったが、折からの外来が長引いているらしく不在。この時間を利用して、アシスタントの先生、フェローシップの先生、そして大きな体の婦長さんが病院のあっちこっちを案内してくれた。
 病院の外傷センターにはERと救急救命センター、9階建ての本病棟の東館と西館(整形外科病棟)があり、それとは別のケアー・ユニットとしてSCU(サージカル・ケアー・ユニット)とICUなどがある。病院のグレードはアメリカ基準の”レベル1”。実力も歴史もある病院だ。この病院には三つの”first”が有る。その一つは「全米で初めてのトラウマ(外傷)専門の病院」であること。二つ目は「ケンタッキー州で一番最初のブレスト(胸部疾患)センターとして認可された病院」であること、さらには「ケンタッキー州で最初にストローク(脳卒中)センターとして認可された病院」であることだった。
 外の気温は31度ーー強い日差しを受けながら(汗を拭き拭き)病院内の敷地を案内してもらっている時に、タイミング良く救急患者を運ぶヘリコプターがヘリポートにやってきた。「ST・MARYS」という病院の契約する青い期待の小型の緊急ヘリだった。駆けつけるスタッフ、点滴を受けながらストレッチャーに乗せられ、急ぎ救命センターに運ばれる患者。この後、この病院ではこのような患者(重傷)に対して、四つのベッドを用意し医師と看護師、スタッフなど11名による評価と救命処置がなされるとのことだった。
 昼前になってようやくセリグソン教授との久々の面会を果たした渡部先生。にこやかに挨拶を交わす渡部先生の顔が16年前の青年(生徒)の顔になっていた。「日本はどうだ?」「友人のドクター達は皆元気か?」などなど、様々の会話を交わす渡部先生と教授。その後、我々のためにカンファレンス・ルームに用意した昼食と、午後から我々と共に市内をキャンペーンをしてくれる全米の自転車のトラックレースでこれまで25回の優勝経験を持つ人(カーティスさん・42歳・教授の患者)を紹介してくれた。
 午後、キャンペーンに出かける前に,教授に幾つかの質問をザックリと投げかけて見たーーーー「世界最先端と言われるドイツの外傷医療に対してアメリカはどうか?」 答えは「我々の方が勝っている!」と即答。「外傷医療体制のシステムで最も大切な要素は?」 答えは「一番にはエマージェンシー体制、二番目には手術のクオリティー、三番目に医師のレベル、四番目にはイクイップメント(医療設備)だ!」と、これも即答だった。最後に「我々は9月のBJDの最終総会に参加するのだけれど、先生は行くのか?」と聞くと「今、考えているところだ」との事だった。全てにおいて世界のNo1を自負し、意識するアメリカにおいて、医療文化を支える教授の自信に満ちた答えが妙に頼もしかった。

風間


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7月18日(日) 新たなメンバーが合流!

インディアナポリスで、南米から続いたオートバイでのキャンペーン活動は終止符を打ちました。これから北米ではカナダのケベックのさらに北東まで自転車での移動が始まります。
また、昨日には風間と同様にサイクリストとして、渡部先生(帝京大学整形外科医師)と、田中(テツ)が合流しチームの士気が高まっています。

イケ


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7月17日(土) オートバイでの移動が終わる。

イリノイ州のエフィングハムを出発し、北東に位置するインディアナ州インディアナポリスに向かいます。ここでは南米からずっと移動に使用してきたオートバイ(ヤマハ/マジェスティ)を降り、電動アシスト自転車(ヤマハ/PAS Brace-L)に乗り換えて一路カナダのケベックならびに、さらにその北東部のベーコモーを目指します。自転車に乗る新しいメンバーも合流しています。
マジェスティは南米やアメリカではそのユニークな形状から、より多くの注目を集めることができ、人々とコミュニケーションを図るチャンスが多々ありました。

イケ


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7月16日(金)猛暑のなか汗だくで。

リトル・ロックを出発し、アーカンソー州を横断するように移動を続けます。
ミズーリ州も過ぎて今日はイリノイ州のエフィングハムに到着しました。

イケ


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7月15日(木)テキサス州からアーカンソー州へ。

昨日にメキシコ湾に面したガルベストンを出発した一行。今日はテキサス州を北上します。
気温がぐんぐん上昇するなか、ガルベストンから約1時間北に位置するヒューストンから北東に延びる59号線でアーカンソー州へ向かいます。
途中ランチで立ち寄った小さな街、テナハのレストランでは、興味を持っていただいたお店の方々と会話して和やかなひと時を過ごすことができました。
その後、アーカンソー州に入るとともにアメリカの高速道路(フリーウェイ)を利用し、州のほぼ中央、リトル・ロックの街に到着しました。

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7月14日(水)北米でのキャンペーンが始まります!

5月と6月に南米とキューバでキャンペーン活動を行ったこの第4弾。今日からいよいよ北米での活動が始まります。
移動に使うスクーターを、エクアドルのキトからヒューストンに送ったものの、なかなか予定の日に到着せず焦ること数日。当初から予定していた北米でのキャンペーン開始日、本日になって到着し受け取ることができました。
アメリカでも街でストリートで出会う方々とのコミュニケーションから病院訪問まで、PR活動を続けていきます。
また、アメリカの行程ではオートバイから自転車に移動手段を変えるので、これまでとは一味違ったレポートをお送りできると思います。

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6月30日(水) あのゲバラの娘さんに会った!

 午前10時のアポイントメントでチェ・ゲバラの実の娘(長女)アレイダ・ゲバラ(49歳)さんと会うことが出来た。面会場所は実際にあのゲバラ氏が40年前に住んでいた自宅である。偉大なる歴史上のヒーローの実際の面影に触れられるようで、何とも言いようのない高鳴る気分。
 自宅はハバマ市内中心部の革命広場に近い閑静な住宅街の中に立つ、白い鉄格子の壁に囲まれた赤い屋根の白い家。ごくごく普通の世界中のどこにでもあるような温かみのある家ーー。今にもゲバラが出てきそうな、そんな雰囲気だった。
 「こんにちは、遠い国からよく来ていただきましたね~」と、ニコニコと笑顔で迎えてくれたゲバラの娘のアレイダさん。こちらはドキドキ気分で握手を交わし、さっそく家の中の応接室のソファーに通され座る。(この黒いソファーにもゲバラが座ったのかも知れない?)緊張したこちらの気分とは裏腹に、アレイダさんの笑顔とゆったりと柔らかな気持ちに救われて、こちらもリラックスムードになれた。
 「日本から来たのね?」と、始まったインタビューだったが、きっと世界中からやってくるジャーナリストにお父さんの話ばかりを聞かれ、内心辟易とした気分ではないだろうか?と思ったので、、、「いつも、こういった面会ではお父様の話ばかりで嫌ではないですか?」と尋ねると、意外にも「いいえ、自分の大好きな父のお話なのですから、いくら聞かれてもうれしいのですよ」とのこと。
 「小児科の医師になった理由はお父様の影響?」と尋ねてみると、「最初はそうだったが、今や医療は国家の大切な取り組みだから、一生懸命励んで社会に貢献したいと思っている」とのこと。
 「何かキューバの子供に関する医療・疾患などの問題点は?」との質問には、「貧しい家庭における栄養の問題や保育園の普及と教育の問題、糖尿病の予防の必要性、運動を道路上で行う子供たちの問題点など、色々と沢山あります」とアレイダさん。
 現在は肢体不自由児の専門病院で働いているとのことだが、理想の病院については「子供の書いた絵があちこちに飾ってある美しい病院を建てることが夢で、ベッド数は450床ほどもある世界に誇れる病院を作りたい」との事だった。
 昔は14歳ほどで産んだ出産年齢も、今ではだんだんと高齢化して25~30歳に、ただし新生児の死亡率はやや高めの4.8%。夫婦二人に対し子供三人が平均。現在のキューバの人口は1150万人。「キューバで一番大切なモノは子供ーー子供を守ることは未来を守ること!です」とキッパリ。
 「お父様で、何か覚えていることは?」と聞くと「父は海外出張ばかりで家での遊び相手はいつも弟のカミーロばかり、家での記憶は少ないけれど、このソファーのここに座って写真を撮ったり、あの階段のところで写真を撮ったり、優しい父の笑顔をいっぱい記憶しているわ。若い頃は貴方のようにバイクに乗って旅をして、、、」「これから貴方はどこまで行くの?」と切り替えされたので、少しオーバーな表現で「カナダまで北上し、そこからゴムボートでアイスバーグの間を縫って航海し、その後はノルウェーに渡って、最終はスウェーデンへ!」と答えると、「しきりに無謀な行為は絶対にダメですよ!」と、何度も強く繰り返し言う。(背景にはゲバラの事があるのだろうか?)
 最後に、一つだけ気になっていた事ーーゲバラの乗っていたイギリス製のバイク「ノートン」は、もしかして何処かに保管されているのか?どうか聞いてみたところ、やっぱり答えはNO。その代わりに、近くオープン予定のミュージアムに展示するグリーン/グレーのシボレー・インパラ(1967年製?)を見せてくれた。お父さんと同様、過去二回にわたり日本にも来日した(去年の秋にも)こともあるというアレイダさん。日本で一番好きな所は、京都と沖永良部島らしい。次回は日本での再会を約束して別れた。目元がとてもお父さんに似ている優しい人だった。
 ーーーーーここから、旅は北アメリカへと舞台を移します。次回は7月11日。

風間


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6月29日(火) 学費の全額を国が負担し、国家予算の35%が医療関連!

 キューバの小中学校の朝礼では、生徒に声を合わせて”セレーモス・チェ!”と言わせるのだそうだ。その意味は「チェ・ゲバラのように社会に貢献し、勇敢で偉大な人になる!ということだが、医者であったゲバラは貧しい人々に医療を施すことによって社会を根底から明るくした。その意志は、その後、カストロ氏によって引き継がれ、キューバの精神にまでなった。
 折からの激しい豪雨となった29日の午後ーーキューバの高度医療を支えるもう一人の「ESCUELA  LATINOAMERICANA  DE  MEDICINA」(ラテンアメリカ医科大学)の学長・フアン・カリーソ・エステベス氏にも話しを伺うことが出来た。
同医科大学は1998年、「ラテンアメリカ五カ国の生活/医療の向上」を狙うカストロ議長の提案により開校し、現在では周辺諸国から多くの学生を集めながら、キューバが世界101カ国、30万人にも及ぶ国外医療派遣を行なうための基盤ともなる学校にまで成長を遂げ、世界から注目される医療の専門大学となっている。
★以下は、その医科大学のユアン学長に聞いた驚くべき学校の医療教育への取り組みと実績である。
◎現在のところ、生徒の実数は約10000人。現キャンパスには3300人の学生達がいる。課程は6年制で、3年になると他の大学や病院に行っての教育実習制度になっている。
◎1998年の開校後12年が経った現在、卒業生の数は7300人(内、アメリカ人は33人)。ほとんどが貧しい家庭の出身で卒業すると皆、カリブ海の小さな島や母国の無医村や僻地に赴任する。
◎大地震で問題となったハイチには、学校からは一番乗りで医師を送り込み、今もなお150人の医師が派遣されている。「医者は困っている人を助けるのが仕事なのだ」と言う事を常に生徒には叩き込んでいる。
◎教育内容には全部で57もの専門学科があるが、メインはやはり医療全般をカバーする「ゼネラル」学科。3年生になる以前でも、夏休み(7月24日~8月31日)になると全員が各国の僻地/無医村地域を訪問し医療ボランティアを行なている。
◎6年間の学費は、食事、衣服、履物、宿舎のシーツに至るまで総てを国が負担。入学者は各国からの推薦の形で来校し、最初は6ヶ月間のトレーニング。その後に入学試験を行い約八割が合格。落ちたら帰国。6年間の課程を無事修了して卒業に至る生徒は全体のおよそ75~77%。卒業出来ない者は留年して次に賭ける。
◎教師は17000人のキューバ人だが、カストロ氏のコンセプトは「キューバだけではなく、学校の運営は周辺諸国と共に協調してやっていく」ことが目標。
◎医療のニーズは総てのカテゴリー(科目)だが、肝心なことは「医療のシステム化」と「予防医療」が特に大切と考え、これに取り組んでいる。
 ★キューバの街中にはほとんど救急車の姿が見えない。その理由を聞いてみたところ、、、、、、。
◎キューバ国内の医師は総体で64000人。国民の156人に一人の医師の割合で「家庭医の制度」を作って「予防医療」に当たっているので、ほとんど救急車の必要性が起らない。(歯医者さんは900人に一人の割合)
◎NGO活動は、これまで30万人(医者と看護師)の医師団が101カ国に国外支援に出向き、今現在は26000人が70カ国に分散して支援活動(2年交代)を行っている。また、タンザニアやイエメンなど四カ国の大学では、キューバの医師の派遣によって医学部を作っている。
◎キューバの医療に向ける国家予算は何と全予算の30~35%(関連予算)で、内16%が実質的医療予算である。政策の中心が医療であり、医療が政策の基盤となっている。
 ★以上のように、医療が国策と外交手腕の中心となっているキューバの徹底した医科大学の運営ぶりに、ただただ驚くばかりだった。

風間


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6月28日(月) カンバラ博士の優しい手

 国をあげての取り組みが行なわれているキューバの高度な医療体制は一体どのような形で運営されているのだろうか? 今日はそんな疑問を解き明かすことの出来きそうな二つの医療施設を訪問し、そこを代表する二人の先生にお会いした。

 その一人はキューバ国内でも最も名高い『INTERNACIONAL FRANK PAIS』(国際フランク・パイス病院)の医院長を努めるアルバレス・ノイエ・カンバラ博士(76歳)。かつてはチェ・ゲバラと共にアフリカ・コンゴの植民地解放闘争にも軍医として従軍した経験をを持ち、現在でも同病院の医院長として、病院の運営と診察業務(日に20~30人の患者を診るという)の両面にわたって大奮闘をするキューバを代表する外傷(トラウマ)医療の専門医である。

 病院を訪れた時、中庭にあった二本のパームツリーの幹に、カンバラ先生の考案したと見られる?イリザロフ型の創外固定器がオブジェとして飾られているのがひと際目を引いた。先生の執務室兼診察室は病院の中央ロビーの右側。受付カウンターのデスクにはチェのメッセージと写真入りの盾がさりげなく置かれ、文面は「必要なものは働き者だ。批判などは要らない。働き者こそがキューバを救う。今は行動あるのみだ!」の内容。他にも沢山のゲバラの写真があちこちの壁に飾ってあった。忙しそうな室内には秘書や看護師や先生の診察を待つ患者、何やら相談にやって来たらしいおじさんたちの一行など、沢山の人たちがいたーーーおそらく、与えられる面会時間は5分~10分間だろう。

 やがて、通された執務室。壁にはこれまでの先生の沢山の思い出の写真が飾ってあった。サッカー選手のマラドーナや数多くのオリンピック選手や野球選手。さらには諸外国の要人達の顔、、フランスのミッテラン前大統領やロシアのプーチン前大統領、エクアドルのコレア大統領、、、などなど、あげ出したらキリが無いほどの数だった。

  『はい、どうもお待たせしましたね、、』と、物静かな笑顔でカンバラ先生がやって来た。堅苦しい会話にはならないよう、こちらがアルゼンチンからゲバラと同じ道筋をバイクで辿ってやって来た只のバイク野郎である事。そして、そのバイク野郎が怪我をして「健康と外傷医療」の大切さを思い知り、その啓蒙活動で世界を回っている事を伝えた。ーーすると、先生は『私もそのBJDの活動の事は知っています』『9月のスエーデンの総会には行きたいところだが、その時期にはこちらでもメキシコやラテンアメリカ諸国との間でミーティングがあってあいにく参加は出来ないけれど、是非、無事にゴールを踏んでもらいたい』と言いながら『貴方の、その足の様子を見せくれ?』と、僕の悪い左足を診てくれた。

 (果たして先生は何と言うか?)全体を動かしたり触ったり、暫く診た後に『今後、もし良かったらここに入院をして手術を受けたらどうか?』と言ってくれた。患者としては、これほどに嬉しい言葉はない。(なぜなら、そう言ってくれる以上は何か改善策があるに違いないのだから)「はい、ではBJDのゴール後の秋頃にでも来てもよろしいでしょうか?」と、半分冗談混じりで答えると『貴方がBJDに貢献してくれるのだから、こちらは何時でも来たい時に来てくれれば診ますよ』と、何とも嬉しくも優しいエールを送ってくれた。

 ーーーそんな会話で始まった先生との会見は一時間以上にも及んだ。一緒に行った竹中信之先生(帝京大・整形外科医師)は、僕よりも少しだけ緊張した面持ちでキューバの医療の歴史や専門的な事柄(共に外傷医療と創外固定の専門家)について、熱心な会話を弾ませながら、9月に行なわれるラテンアメリカのミーティングに誘われるなど、どうやら今後は相互の医療的交流の場を設定して定期的なコミュニケーションを図って行こう!と言う事になったようだった。
 そんな竹中先生のカンバラ博士とキューバの医療実情について印象は、、、、「チェの残していった奉仕と労働に対する積極的な姿勢を、身を以て実証するカンバラ先生の医療に対する精力的な姿勢と高度な医療レベル(設備と内容=たとえば血液、骨、皮膚のバンク。または骨折部への幹葉系細胞の注入など)を拝見させてもらい、本当に感動した。他にも、このような先生が数多いと聞くキューバの医療の底力も同時に感じる事ができた。先生はロシアの創外固定で有名なイリザロフ博士とも親交があり、それを元に自らがキューバで開発(モディファイ)した創外固定法「カンバラス・創外固定システム」を使って多くの実績を積み上げて来たが、専門を同じくする自分としても、今回の先生との面会で沢山の勇気と宿題を頂いたような気分になった。今後は互いの交流を通じて、両国の医療の発展に一層努力して行きたい」と語る。

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6月27日(月) 革命広場から、オンボロ自転車で発進!

 キューバにおける「運動器の10年」キャンペーンの活動内容は、これまでの南米と同様、運動器の大切さを触れ合う人々に伝えながら、世界でもトップレベルと言われている医療大国キューバの実情と、その社会的背景などについて検証し学ぶことにある(格好良く言えば)。
 もちろん、それらのバックボーンにはかつて軍医であったエルネスト・ゲバラ(チェは愛称)と、それを国家的政策に展開したカストロ元議長の強い理想と信念があったことは間違いのないところだが、ゲバラが居なくなって43年(1967年没・39歳)、現在では政権の座をフィデル・カストロ氏から弟のラウル・カストロ氏に移っている今、どのような状況下で医療への取り組みが行なわれているのか?年間2~30000人もの医師の海外支援活動がどうやって行なわれているのか?など、興味深いところである。
 キューバ・キャンペーンのために使用した乗り物は現地調達の”超”の付くオンボロ自転車である。キューバにレンタルサイクルの存在は無く、知人が見つけ出してくれたのは長い間軒下に放置されていた1950年代(街中を走るアメ車と同じ)の鉄の塊のように重い上海製の「フェニックス号」。前後のホイールはハの字に傾いて、ブレーキは後ろだけ、チェーンはギアとはサイズ違いだから走行中に外れてばかり、シートは破れて鉄が突き出ていて、どうにも股が痛くてたまらないという有難い代物。そんな訳で、理想はハバナ市内から隣街に向って50kmくらいのツーリングを楽しみながらのキャンペーンを実施するつもりだったが、とんでもない。新市街の中心部に位置する「革命広場」から海岸通を旧市街に向って二台が並んで行くのが精一杯のとこだった。汗だく。

 本日の走行10km。

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6月26日(土) 世界の何処にも無いキューバ独特の雰囲気がいい。

 目覚めると窓からはカリブ海の大海原が見えた。ここは、かの有名なヘミングウェイが20年間も住んで「老人と海」を書いた町。そして、かの有名なチェ・ゲバラがカストロ議長と共に作りあげた社会主義国家。一緒にするのは申し訳ない気がするが、かつて、そのゲバラも今回の僕と同じ様にアルゼンチン(故郷)からバイクで出発して、チリに渡ってペルー、エクアドル、メキシコ(ここでカストロ氏と出会う)に至りキューバまで来た。革命家と言うより、ライダーという意味において、とても親近感を覚える存在である。
 午前中、政府のプレスセンターに行って取材者登録を済ませ、ハバナの中心街、そして旧市街地に行ってみた。街には革命直後にカストロが指揮を執った旧ヒルトンホテル、チャーチルやエリザベス・テーラーなど、名だたる有名人の泊まったと言うホテル・ナショナル、城壁の厚さが20mを誇るという16世紀のフェルサの要塞、、、などなど。

 見所いっぱいの名所・旧跡のうち、タケちゃんとゼンちゃんと三人で1875年建造のキューバで最も古いホテル・イングラのシックなティールームでお茶を飲み、ヘミングウェイ行きつけのBar“フロリディーダ”に行って、$16のサンドイッチ(有名なダイキリは$6だった)を食べた。いずれも古い歴史を持つキューバの観光名所となっているが、街にはここ10年来の政府のとった観光誘致政策と映画「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」の大ヒットも絡んで、沢山の外人観光客で溢れかえっていた。その観光客の一番の感心事は何と言ってもチェ・ゲバラであることは言うまでもない。
 ーーーしかし、とにかく暑い。気温は32度、湿度95%。一ヶ月前まで-20度に震えていた体には実にキツかった。
 ホテル・イングラのティールームのおじさんの話だと「今はキューバも異常気象で、夏暑く冬寒い。去年など冬の気温がたった5度だったから、沢山の老人が風邪を引いて死んだ」と、世界中いずこも同じような訴えを耳にするのが気になった。いずれにせよ、初めて体験したキューバの印象は南国のラフなイメージに加味された社会主義国家のクールさとでも言おうか?、、、世界の何処でも体験出来ない不思議空間、、、つまりは、太陽さんさんのカリブ海の一大リゾート・ゾーンでありながら、街や海岸線などのロケーションに、普通ならばあるべきコマーシャリズムが存在しないから、雰囲気は簡素で繁雑感がない、そして人々は常に明るく真面目??ーーあり得ない南国の人々の人情とクールな社会主義のミスマッチが独特の雰囲気(これが魅力的)を醸し出していた。

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6月25日(金) いよいよキューバに向かう、、

 午前中にキト新市内にあるエアーカーゴのエージェントのオフィスに行き、マジェのヒューストンまでの空輸代金を支払いに行く。代金は木枠梱包まで含めて総額22万円程度。2、3年前にドイツ人が送ったという事例をネットで検索したが、その時の「カーゴの代金は7~8万円だった」とは大分開きがある。が、ぐだぐだ言っていても仕方がない。
 午後一番で空港に向う。行く前に食い納めのつもりでフルーツのてんこ盛り(マンゴー、バナナ、パッションフルーツ、ピタハヤなど)を昼飯代わりに食べる。向うキューバにも美味しいフルーツはあるのだろうか?
 フライトは午後16時発のKOPA AIR LINEの000便パナマ行き(1時間40分)。そこで乗り換えてキューバの首都・HAVANA(3時間)に向う。初めて見る上空からのハバナは、道路に街灯が無いせいだろうか?時折、民家や小さな町の灯りが点々と見えるくらいで、まったくの真っ暗闇?に見える「本当にハバナ?」「もしか下は海?」と疑ってしまうくらいの暗さだった。

 まもなく飛行機(B737)はハバナ国際空港に着いた。キューバ暦40年25回目の訪問となるゼンによると「キューバの入国審査は入念だから、何度行っても緊張する!」という話しだったが、日本で医療関係の取材用のビザを取得して行ったせいか?意外にもサクサクッと行ってしまった。出迎えのキューバ人達の顔立ちは黒人系が多くなったように見受けられた。ここで、このキューバで医療の取材を一緒に行なう帝京大学の竹中信之医師(創外固定が専門の整形外科医)と落ち合う。
 初めて踏んだキューバの土。夜空には星が輝き空気はとても澄んでいるようだったが、さすがに暑い。客待ちのタクシーの中に噂のドでかい50年代のアメ車が本当にいるので驚いた。部品の供給やメンテナンスは一体どうやっているのだろうか?
ーーー0時30分、ホテルに着く。

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6月20日(日) キトで南米縦断のゴールを迎えました。

ミラグロを出発した一行は、昨日に引き続き雨のなか、山間部の道路を走行。標高がぐんぐんと上がっていきます。目指すは今回のキャンペーンで南米のゴールに設定したエクアドルの首都キトです。(コロンビアは社会情勢を考慮して通過しないこととしました。)途中、事故いよる大渋滞に巻き込まれはしましたが、標高2,800mの都市キトに到着です。
さて、キャンペーンはここで一段落。続くは6月26日から始まるキューバ編です。そこでも病院の訪問をはじめ、地元の方々との交流を図りながら活動を進めていきます。お楽しみにしていてください。

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6月19日(土) 南米で最後の国エクアドルに入る。

ペルー北部の街トゥンベスから北上すること30分、いよいよ南米で最後の国となるエクアドルに入国しました。入国後すぐにバナナ農園の中を切り開いたかのような道路を走行。雨にも見舞われましたが、無事に280km走行してミラグロに到着しました。

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6月18日(金) ペルーで最後の街、トゥンベス。

今日はペルーでは最後の宿泊地、トゥンベスに向け走行を開始。そして、チリ北部のアリカから10日間、サポートカーの運転を努めたウーゴさんと父親のウィリーさん(彼らはこれからの3日間で3,000kmを交代で走行して南下する)ともお別れです。車内で撮影するカメラマンに上手に気を使っていただいたことはもちろんのこと、メンバーの貴重品盗難を防ぐために些細なことまで神経を使っていただきました。そのほか、例を挙げるときりがありません。ありがとうございました!

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6月17日(木) 気温上昇。

トルヒーヨをあとにした一行は約450km北のピウラへ向け引き続き北上です。しかし、トルヒーヨの宿を出発後すぐにとある病院を発見。よく見ると設立されたのが1551年。なんと459年前にもなり、どうやらペルーで最も古い病院だそうです。
その後は気温が31度にまで上昇。体力がゆっくりと消耗されるなか、人口30万人のピウラに到着しました。

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6月16日(水) リマを離れ、トルヒーヨへ。

数々の病院訪問や医療関係者の方々との面会のため、4泊5日で滞在したリマを離れて再び北上を開始。リマでは曇りが続きましたが、陽が差して気温が上がってきました。今日は約580km走行してトルヒーヨに到着です。

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6月15日(火) 一日1000人が来診する国立子供病院を見学した

  リマに来てから空は晴れたことがない。冬特有の雲り空だと言う。
  リマへの滞在(取材のため)の最終日。今日はペルーにたった一つだと言う国立の子供病院「INSTITUTO NACIONAL DE SALUD DEL NITO」を見学した。朝の9時に病院に行ってみたのだが、朝からもの凄い人の数。お母さんに付き添われた子供達で病院の表玄関は大変ごった返していた。

  一番に会っていただいたのは、ここの医院長のDr.Roberto L.Shimabuku Azato(日系三世・小児科の教授・沖縄に親戚・63歳)さん。30年前に5年間日本にいたと云う医院長先生に病院の概略(ベッド数535床、外来患者一日1000人、医師300人、内トラウマ13人、20ベッド、手術室8)をお聞ききし、さっそく4階にあるトラウマ・セクションに行ってみた。
  そこのボスはDr.Miguel Angel Aguilar(整形外科・外傷専門医・55歳)さん。気さくな方で一緒に病室をまわりながら、子供達の手を握ったり笑顔で話しかけたり優しい先生だった。
  先生によると、ここに来る子供は圧倒的に手足の怪我が多く、1~3月の夏休みになると例年来院数が急増(8~12歳が一番多い。男子が70%)。そして、この時は地方の子供が多くなる。地方の子供は事故や怪我した後、しばらく放置して怪我の箇所が悪化してからやって来る。骨折が圧倒的に多い、次が火傷。『説明すれば納得してくれる大人に対して、こどもは感情だけなので苦労しますよ』、、と笑う。
  治療費はSISと云う国の「児童保険」に加入していれば原則的に治療費は無料。対象児童は18歳まで。
  何か不足のものがあるとしたら何か?を尋ねると『アウトピット(骨の延長器)が三台しかないことや、これを含めて最新の機器をもっともっと増やしたい』との事だった。

 
医院長先生は日系のロベルト・シマブク博士。日本語でなんとか話せた。
 
教育係のプロフェッサーも熱心に課外授業をやっていた。左足を骨折したジェシェニアちゃんは13歳、クスコからやって来て「はやく家に帰りたい」と言っていた。
 
気さくなトラウマの先生。ミグエル・アギラーさん。
 
何とここの病院では移植用の皮膚と骨を自主制作をしており、ここを見せてもらった。
 
病院の全景と二日間に渡って、あちこちの施設や病院を案内してくれたフリオ先生と、医院長秘書の女性と記念写真。
 

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6月14日(月) 地震の災害時に収容病院も無し!

   昨日のフリオ先生の話しでペルーの今の苦しい医療事情を知ったが、これよりもう少し切実なな話しも聞いた。話しをしてくれたのは、今、ペルーで「救急医療ネットワーク」のNGOを立ち上げようとしている三人組み。一人はイベルト・ウォルター医師(癌の専門医・55歳)と、ルイス・シアレル医師(癌の専門医・38歳)、そして日系人のシドロ・カガミ・フジモリさん(元ペルー大統領の甥?)だ。三人は現在のペルーの厳しい事情を語る。

  ・2007年8月15日、リマから南に250kmの「ピスコ・チンチャの町」を襲ったマグニチュード6.7の地震は、7000人の負傷者と150人の犠牲者を出した。この時、海外から駆けつけてくれた沢山の救援隊の力も手伝って、多くの人々が救出されたものの、残念ながらその負傷者を収容する病院もなく途方に暮れた。食料も同様で、内外から多くの物資・食糧品が届いたにも拘らず、その配給するシステムも機能もなかった。

  ・アンデスなど山岳地域の多いペルーには沢山の鉱山があり、インカラリーのような国際的なラリーも行なわれているにも拘らず、一人の医師もいない地域が数多い。たとえば、クスコの奥に「マグー国立公園」というのがあるが、ここは林業も盛んで、一年中観光客も沢山訪れる所だが、その県にはトラウマの先生は一人も居ないのが実情。ペルーの田舎に行くと、沢山の足が曲がったまま歩いている人や、中には手を使って歩いている人もいる。

  ・地域を管理する軍隊や警察官だって他人事ではない。これまで、任務で怪我をして身体障害者になった人は累計で10000人。1996年の日本大使館の立てこもり事件でも、特殊部隊の警察官が処置の手遅れで両足が切断になった人もいる。

  ーーーこういった問題を解決していくために、昔のインカの時代の人々が骨折をした時、今の「石膏」の代わりに葉っぱに油を塗って固定処置をしたように、現場(水際)で応急処置(初期治療)が出来る頼れる医師達を養成し、これをネットワーク化してペルー全体に広めていきたい!のだそうだ。NGOはそのための組織作り。但し、今のペルーの現状は「医療行為を行なおうにも医療器具もお金もない。その点においてペルーはその博物館のようなもの」と、医師は嘆いた。

  ーーー今後は、政治のレベルも含め、大衆の力を集め、隣のブラジルでそうしたように国民全体で対処/改善して行かなければならない。例えば、消防署に協力をしてもらって、地域の負傷者や障害者のリストを作ってもらうだけでも大いに助かる。ペルー医師は、およそ5万人。その内、トラウマに関する医師は1000人(80%はリマ在住)で癌の専門医はたったの5人。その内の二人はここにいるよ!と笑う。NGOの名前は『DOLOR DE ESPALDA』だ。

 
NGO代表のイベルト先生。
 
話しが真剣そのものだった若手のルイス先生。
 
日本人の三世のイシドロ・カガミさんは右大腿四頭筋に10cmの腫瘍があり、6年前にイベルト先生の手術を受けた。この関係から今回のNGOの立ち上げから協力している。
 
五つ星のホテルの前で日本縦断のタスキをかけて記念写真。左端は通訳の大植さん。

<ペルーで唯一のリハビリセンターを見る>

  リマへの滞在中、先生たちの紹介で様々な医療関係の施設を見ることになった。この日の午後はペルーの国立リハビリテーションセンター「INSTITUTO NACIONAL DE REHABILITACION "DRA.ADRIANA RIEBAZA FLORES"」(ペルーにたった一つのセンター)。ここで、様々な分野でのリハビリ、そして、センター内で製造している義手、義足などの装具の作業工程を見学させてもらった。
  ーーーその印象は、やはりここでも最新の機械や資金に不足を感じていることは否めなかったが、その分、医師たちの力を集めた患者への熱心な対応が目を引いた。

 
新しく造った義足の歩行テストをするご婦人。でも、今ひとつ、、といった表情だった。
 
『貴方も、こんな歩き方をしててはダメよ!』と、見学に行った筈の僕の悪い方の左足の踵に入れるスペーサー(2cmくらいのスポンジ)を入念に診察して、作ってくれた。
 
最後はどこに行ってもお世話になった方々と”タスキ”の記念写真で終わり。ムーチャス・グラシャス!

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6月13日(日) 何処も同じ、ペルーも医療の低迷に悩む。
熱心にペルーのトラウマ事情について話すフリオ・セグラ先生。
 
ここまで約7000kmを走ったマジェスティーとフリオ先生とその娘のアレハンドラさん。後ろはペルーの最高裁判所。

 「運動器の十年・世界運動」に参加している国は世界の94カ国に及ぶ。このうち南米での参加国はブラジルとアルゼンチンの二ヶ国のみ。訪れたペルーは、このキャンペーンへの参加には至っていないものの主旨に賛同して特別な力を注いでいる先生達もいる。

  フリオ・セグラ医師(リマ在住54歳・整形外科/トラウマの専門医)は、ペルー国内において運動器に関わる医療問題に最前線で取り組むオピニオン・リーダーだ。そのフリオ先生に面会しペルー国内のトラウマ関連の話を聞く事が出来た。

  先ず、ペルーの医療全体の問題点から聞いてみたのだが、結論は=国家・国民の意識と取り組みには問題が山積みであり、その実態は先進国に遠く及ばないことは言うまでもないが、一つの例としてトラウマ関連の実際をお聞き頂ければその全体像についても想像がつくと思いますーーとの事。

  *先生の教えてくれたペルーのトラウマ(外傷医療)関連の現状は以下のようだった。
  ・2915万人(2008)のペルー全体人口に対して、ほぼ800万人(2007)の居住者のいるリマ市には二箇所の国立病院がトラウマの専門のセクションを設けている。他、全国の10箇所の複合病院で他の産婦人科や内科などの診療と併行して受け入れを行なっているが、この人口に対してそれが全て。地方には診療所もない無医村地帯が数多く、治療の出来ない手足の不自由な人はいっぱいだ。
  ・救急車の数は国立病院で一台づつ、消防署で一台と計三台がペルーのすべて。あとはプライベートの”アンビランス”がリマ市にも地方にもあるが、その数は認識できない(貧しい一般人は利用出来ない)。もちろん、先進国にはヘリコプターを使用している所もあるのは承知しているが、ペルーでは想像もつかない。
  ・近年、トラウマ関連の死亡者の78%が交通事故に寄るものであり、そのほとんどは歩行者に責任がある。原因は、増え続ける交通事情に対して、一方で市民に対する交通教育がまったく出来ておらず、学校/役所の取り組みに問題がある。
  ・保険に関しては強制保険の制度と任意があるが、リマ市の人口がはっきりと把握出来ないように住民登録を行なっていない人たちも数多いので問題も多い。国立の病院の診察は基本的に無料。
  ・このような憂うべき現状に対して、今、国は改善策を検討中だが大きな期待は出来ない。政治家にも医者出身の人もいるが、何の医療的政治活動も行なっていない。

  *今年の2~4月にかけて日本で行なった「障害者100人による日本縦断駅伝」のDVDを先生に見せると「これはいい、リマ市でも是非やりたい!」と、目を輝かせた。「このように、日本では積極的に医師も患者もが一緒になって健康と医療の向上を広く訴える行動を起こしているのです」と云うと、先生は「絶対にやりたいので、スエーデンが終わったら、またペルーに来て下さい。準備を整えておきます」と増々、本気になってしまった。(困ったな?)

風間


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6月12日(土) 900万人都市、リマ。
ナスカの博物館で小学生の団体に出会いました。
 
久しぶりに海を見たピスコのレストランで働く女性。

ナスカを朝8時に出発した一行がまず向かったのはマリア・ライヘ博物館。ドイツ人女性で地上絵の解明と保存に努めた考古学者です。
その後は、900万人都市、リマに向けて再び北上を再開。ペルーに入国してから海抜2,800mの都市アレキパ、大草原が広がるナスカを経由してきましたが、今日は途中で道路が海岸沿いに出ました。海を左手に見ながらリマに到着です。


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6月11日(金) ナスカで停滞。
広場にいた元気いっぱいのサッカー少女たち。
 
元気の出るバナナを購入。

大平原に描かれている地上絵で有名なナスカに留まりました。風間は原稿執筆、メンバーは荷物の整理などに時間を費やしました。夕方には時間を作ってセスナから地上絵を見に空港へ。つかの間の休息を楽しみました。


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6月10日(木) アレキパからナスカへ。
昼食を摂った食堂で働いていたお兄さん。
 
ペルー第2の都市アレキパを出発。

海抜2,800mに位置するアレキパを後にして向かったのは地上絵で知られるナスカ。
一部のメンバーは軽い高山病のような症状を抱えながら出発しました。1時間くらいの走行で太平洋岸のパンアメリカン・ハイウェイに出て北上を続けます。


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6月8日(火)移動のための準備。
サポートカーとなる車両自体はあるものの、翌日出発が決まり打ち合わせをするメンバー
 
夕飯のあとにジュースを飲んで一息。

朝からペルーへの国境越え、それからペルー国内での移動に使用するサポートカーの手配にとりかかりました。運転手さん付きのバンを1台手配でき、昼過ぎに出発するために荷物をまとめて用意をしていましたが、「ペルーへの国境越えの車両登録完了が翌日になる」との連絡が入り、やむなく今日はアリカに待機です。

イケ


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6月7日(月) チリ最北の都市。
2日間もお世話になったホテルにて出発前に撮影。
 
道路わきは崖になっていて注意が必要。それにしても絶景。

海岸沿いの街イキケをあとにした一行は内陸部を北上。左右に小高い山を望みながら谷間に敷かれた舗装路を走行しかたと思えば、山の斜面に続くスラロームを走行。海岸沿いのイキケから一時は海抜1,300m地点まで上りました。
到着したのはチリ最北の都市アリカ。こちらも海岸沿いに栄えています。

イケ


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6月6日(日) イキケに留まりました。
どんな気象条件でもずっと移動を続けた風間。南米を250ccのスクーターで走りきります。
 
サポートカーのなかの様子。GPSの音声、カメラのシャッター音、パソコンをタイプする音などがせわしなく響いています。

5月22日にウシュアイアをスタートしてから初めて移動しない日となりました。とはいってもメンバーはほとんどの時間を今回のキャンペーンの準備に費やします。
ここで、現在南米でキャンペーン活動をサポートしているメンバーを紹介します。
サポートカーの運転手はチェリー・レバルション(66・右)。パリダカ・ラリーに14回出場した経歴を持つだけでなくコースも設定したことがあるベテランドライバーです。カメラマンは佐藤敏光(55・中央)。モトクロス世界選手権の取材を26年間続けた経歴があります。「運動器の10年」世界キャンペーンには2008年のアフリカ大陸縦断から参加。最後に、私、池村知己(31・左)。マネージャーとして参加しています。

イケ


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6月5日(土) 太平洋は美しい。
国道1号線を走行中にすれ違ったライダーとあいさつ。雄大な自然のなか風を切って走るライダー同士ならでは。
 
少し道を逸れて太平洋を眺める。

海岸沿いの都市アントファガスタを出発して数十kmは内陸部を移動。その後は再び海岸沿いの道路、パンアメリカハイウェイを北上です。左手の太平洋、右手の小高い山に挟まれた道路を延々と走りました。到着したイキケ周辺には砂漠が広がっています。パリダカール・ラリーの舞台にもなっているエリアです。

イケ


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6月4日(金) チリも後半へ。
立ち寄ったガソリンスタンドの売店にて。
 
この日は700km以上も移動した。

縦に伸びるチリの縦断も後半に差し掛かりました。バエナルをあとにした一行は、再び海外沿いの5号線を北上。途中から内陸に入って再び海岸沿いへ。アントファガスタという街に到着しました。街に入るとすぐにサッカー場が見えました。今回のキャンペーンではサンティアゴに次ぐ人口約30万人の都市です(サンティアゴは約460万人)。


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6月3日(木) 高速道路でも。
「Holla!」で会話がはじまるとキャンペーンのフライヤーとバッジを配布します。
 
新しい出会いを求めてバエナルに向け移動。

サンティアゴのあとにして前日たどり着いたのは太平洋岸のロスビロス。そこをあとにして高速道路5号線でいつものように北上を続けました。高速道路の休憩所では長距離トラックの運転手さんたちが休憩中。たまたま近くにキャンペーンの一行も停車するとやはり興味を持たれて会話が始まります。
その後バエナルに到着しました。


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6月2日(水) 南米屈指の病院を訪問。
ロベルト・ネグリン医師と面会をアレンジいただいた広報部門の方々。
 
病院内専用チャンネル用にインタビューを受ける風間。

2日間も?滞在したサンティアゴを離れる前に、チリだけでなく南米でも屈指の医療設備・体制を誇る総合私立病院クリニカ・レス・コンデスを取材のため訪れると快くご対応をいただくことができました。病院のメインホールはとても賑やか。カフェが点在していて、中庭があって、病人でない人もゆっくりと時間を過ごせる空間のようです。
まずは、病院の広報部門の方々からインタビューを受けました。病院内専用のテレビチャンネルがあって、今回の私たちのキャンペーン活動を放送いただく機会に恵まれました。その後は整形外科の建物に移り、ジムに案内されました。患者さんのみならず、病院で働く方々も利用できるとのこと。「チリ人の93%は日ごろ運動をしていません。私たちはそれを改善しようと試みています」と説明をいただいたのは外傷・整形外科学を専門とするロベルト・ネグリン先生。一般人の利用に関しても取り組んでいるようです。
なお、クリニカ・ラスコンデスでは救急ヘリコプターが1機(チリで唯一)、病床が500床、ドクターが600人(内、整形外科医は23人)、看護士が3,000人の体制を整えているそうです。


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6月1日(火) サンチャゴで準備。
すでに4,000km以上の距離を走行したマジェスティのメンテナンス。
 
整備いただいたところで、忙しいなか集まっていただいた。

キャンペーンの開始以来、毎日違う場所へと移動を続けてきましたが、今日はサンチャゴで準備の日としました。マジェスティの整備をヤマハ発動機のオートバイ屋さんにしていただいたのですが、現在の社長は風間がアコンカグアに登攀したときに出会っていて、約20年ぶりの再開ということなので驚きです。
サンチャゴから使用するサポートカーの手配も整えました。
新たな気持ちでキャンペーン活動を展開していきます。


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5月31日(月) 都会に入る。
サンティアゴ手前のガソリンスタンドにて。
 
キャンペーン開始以来の大都会、サンティアゴの中心を走る風間。

チヤンをあとにして目指すはチリの首都、サンティアゴ。近づくにつれて高速道路の交通量が多くなりました。数日前まではパタゴニアでキャンペーン活動を展開していたかと思えば、あっという間に環境が変わって都会に入っています。途中で立ち寄ったガソリンスタンドでは手の空いたスタッフの方が一人、また一人と風間とマジェスティに集まってきてスタッフさん全員で写真を撮らせていただきました。


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5月30日(日) 繋がっていくタスキ。
女性の首には日本縦断駅伝で繋がれたタスキが。「運動器の10年」最終総会が開催されるスウェーデンまで運んでいく。
 
チリの高速道路を走行する風間。横断する歩行者や自転車で走行する人もいる。

前日夜、それから出発の朝も濃霧のロンコチェ。50m先が見えないほどです。宿でパンとコーヒーで朝食を摂ったあとスタッフの女性と話していると、どうやら彼女は指や膝が完全には曲がらない障害を持っている様子。「これから先もがんばってね!」とエールをいただきました。
街をあとにあした一行は、南北に長いチリを縦断する5号線に乗って北上を続けます。宿泊するのはチヤン。約400km先はチリの首都、サンティアゴです。


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「運動器の10年世界運動キャンペーン」TV放映のお知らせ

風間深志が中心になって活動してきた「運動器の10年」キャンペーン「オーストラリア大陸障害者自転車横断」の模様が、BSフジにて放映されることが決定いたしました!
障害者3名、サポートの医師等と共に走りぬいた5,151kmの記録を是非ご覧ください。

放映日時:6月5日(土)13:30~14:30
放映局:BSフジ
番組名:BSフジ特番
-WHO承認「運動器の10年」世界運動-
「障害を克服した冒険家・風間深志、59歳の挑戦!オーストラリア大陸自転車
横断5000キロの旅」
http://www.bsfuji.tv/top/pub/kazama_adventure.html


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5月29日(土) チリに入国。
ナウェルウアピ湖を挟んで、あとにしたばかりのバリロチェを望む。
 
チリへの入国で警備員さんらに応じて記念撮影。

バリロチェをあとにしたキャンペーンの一行は一路チリへ向かいます。チリへの入国では気さくな警備員さんらが風間やマジェスティに興味深々。すかさずスペイン語のフライヤーを配りました。口頭では説明ができませんが、読んでもらうとすぐに活動の内容を分かってもらえます。

イケ


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5月28日(金) 人里離れたレストランでも。
レストランを営むご夫婦の女の子にバッジをつける風間。
 
バリロチェの宿に到着。未来のアルゼンチン代表!?

エクエルを出発して目指すは湖を望む街バリロチェです。バリロチェに到着までの山間部を移動中にひっそりと佇むレストランを見つけて昼食に立ち寄りました。ご家族で営業されているようで、小さなお子さんたちが厨房やホールで遊んでいます。そこに風間が「運動器の10年」のピンバッジをつけてあげると女の子は大喜び。少しずつですが、キャンペーン活動を通して出会う人々が増えてきました。すでに移動距離は約2,000km。都市や街ばかりではなく、アルゼンチンの隅々にまで交流を広げているような気分になってしまいます。

イケ


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5月27日(木) 気温-10度で出発。
ライダー同士はすぐに打ち解ける。それが草原の真っ只中ならなおさら。
 
不思議な乗り物? に見とれる少年。

ペリト・モレノを出発するときの気温はおおよそ-10度。世界最南端の都市ウシュアイアを出発してから5日間走行を続けましたが、まだまだ気温は寒いまま、というよりも、これまでで最も気温の低い朝でした。
今日は約500km北上してエクエルに到着。


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5月26日(水) 地元の方々に元気をもらいながら。
ホテルのスタッフの方々と風間。キャンペーン活動について語らいました。
 
途中のガソリンスタンドでは地元のお客さんと記念撮影。

今日も夜が明けきらない8時30分ごろにエル・カラファテを出発しました。600km以上を走行してペリト・モレノという小さな街に到着。前日に訪れた氷河と同じ名称ですが、その小さな街にもつけられています。
行程の半分以上が未舗装路という状況でしたが250ccスクーターのマジェスティと風間は難なく走り切りました。


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5月25日(月) 氷河の街、エル・カラファテへ。
人口150人の小さな村エスペランザを夜が明けきっていない8時30分に出発。
 
ペリト・モレノ氷河で軽食を摂る風間。

エスペランザを陽も上がっていない朝8時30分に出発し、一路エルカラファテへ。途中左手に壮大なスケールでそびえ立つアンデス山脈を見ながら走行し午前中のうちにエル・カラファテに到着しました。
エル・カラファテといえば、そこから50kmほど走ればペリト・モレノ氷河がある街。午後は疲れた体を休めながら、その氷河へと足を運びました。

イケ


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5月24日(月) 吹雪のなかでも北上。
パタゴニアの強風を受けながら走行。
 
エスペランザのホテルでは建物の廊下にマジェスティを保管させていただいた。

プンタ・アレナスを出発し、しばらくはマゼラン海峡沿いを走行です。あいにくの小雨模様ですが、パタゴニア地方では一日のうちに天候がころころと変わるのが当たり前だとのこと。続く草原地帯を走っていると陽が差して少し安心もしました。その後アルゼンチンに再入国です。キャンペーンが始まって今日までのところ、毎日のように地平線を見ながら移動を続けています。あまりに視界が、空がひらけているので、進行方向の先では雨が降っているとか、晴れているとか、天候が一目で把握できます。
今日は海抜400mの高原を走行中に雪が降ってきて焦りましたが、高原を下がった人口150人のエスペランザになんとか到着。明日からの活動に備えます。

イケ


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5月23日(日) マゼラン海峡を渡ってプンタ・アレナスへ。
気さくな大型トラックの運転手さんらと風間。
 
未舗装の道路が長い距離に渡って続く。

リオ・グランデを出発した一行は引き続き一路3号線を北上。チリへ入国し、マゼラン海峡をフェリーで渡ったところで西へ進路を変えて、プンタ・アレナスに到着しました。
フェリーを待つ間、大型トラックの運転手さんらがマジェスティの珍しさからか風間に話しかけて会話が始まりました。2人の運転手さんのうち、1人はどうやらバイク乗り。体のいたる部分にある怪我の痕を見せてくれたかと思うと、運転席にあるバイクの写真も誇らしげに見せてくれます。それにしても元気いっぱいの運転手さんでした。

イケ


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5月22日(土) ウシュアイアを出発!

▼南北アメリカ大陸縦断?北ヨーロッパ横断のレポートを最初から読む

ウシュアイアを出発して間もない草原地帯をマジェスティで走る風間。
 
主にパタゴニア地方に生息するグアナコ。

午前中は準備に費やし、正午過ぎにようやくウシュアイアを出発! キャンペーンを開始しました。
アルゼンチン国道3号線を北上。途中、山間部のワインディングで地面が凍結しているシーンもあったが遠征隊は順調に目的地のリオ・グランデに到着しました。
天候や道路状況を考慮してホテルの予約は入れていないため、街に着くとまず行うのはホテル探しです。ステッカーを貼ったマジェスティやサポートカー、さらにはさまざまなロゴマークのついたウェアで、一風変わった格好のため人々の視線を集めながら複数のホテルを訪ねていきます。カウンターでキャンペーンの趣旨が書かれたフライヤーを見せると、しっかりと読んでいただけました。


 


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5月21日(金) ウシュアイアをスタート!?
隊長の風間は時間を見つけてマジェスティとの記念撮影を行った。通りがかりの女性らと。
 
朝、ホテルの窓から。

朝10時にサポートカーがすぐには修理ができないことが判明。一同さすがに落胆の色は隠せなかったものの、すぐに気を取り直しプランの変更にとりかかりました。ツーリスト向けの案内所が近くにあるのでそこで何度も話し込ませてもらったり、電話をかけてもらったり、教えてもらったショップに足を運んだりしました。
明日は待ちに待った出発の日です。

イケ


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5月20日(木) ステッカーを貼って準備万端!?
マジェスティにステッカーを貼る隊長の風間。
 
サポートカーの異変に気づいたものの、なんとか撮影できるスポットまで走らせての記念の一枚。

スタートを目前に控えた今日は、マジェスティとサポートカーにステッカーを貼りました。また、サポートカーで牽引してメンバーの荷物を載せるトレーラーの整備も行い準備は万端! キャンペーン用に新調したチームウェアとともに出発を祝う記念撮影を行おうとサポートカーとマジェスティでホテルを出た直後・・・、サポートカーが加速しません。
どうやら電気系統のトラブルで、やむなく近くのディーラーにチェックに出すことになりました。明日の朝になれば、すぐに出発できるのか、もう数日ウシュアイアで待機するのか、はっきりします。

イケ


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5月19日(水) いよいよ始まるキャンペーン
まだインターネットに接続できるほどの都市にしか滞在してないので使用していないが、
ウシュアイアをスタート後は頻繁に稼動するだろう。

キャンペーンが始まると、まずはパタゴニアの荒野を北上することになります。宿はところどころにあるのですが、なにせ荒野の真っ只中、インターネットにアクセスできない日が多いでしょう。そこで活躍するのが、衛星を使用したデータ通信「インマルサット」です。これがあれば、毎日のように皆さんにレポートをお届けできる、強い味方です。

イケ

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5月18日(火) ようやく夜行バスを下車
夜行バスで2泊3日。さらに12時間をかけてブエノスアイレスからウシュアイアに向かう。アルゼンチン→チリの国境にて。
 
キャンペーンのフライヤーをホテルのフロントの方に見せると「南北アメリカ大陸縦断!? がんばってくださいね!」

夜行バスに乗って3日目の早朝、ウシュアイアから直線距離にして北に約500kmのリオ・カレゴスという町に到着。ようやく下車しました。ここで風間は先に南下していたサポートカーと合流。マジェスティの整備をしてから、その先続くアルゼンチン→チリ、チリ→アルゼンチンの国境越え(通関)に向かいます。
私、イケはバスを乗り換えてたくさんの荷物とともに荒野のなか、先にウシュアイアへ向けひた走ります。
チリへの入国の荷物検査で、X線の画像を見せられ、「これは何だ?」と思われるスペイン語。実は大量に持っていた「運動器の10年」のピンバッジやブロックタイプのカロリーメイト、それから粉末タイプのポカリスエットが気になったようです。そこで持っていた今回のキャンペーンのスペイン語版フライヤーをサッと取り出して見せると、それ以上荷物は調べられずに済みました。
ウシュアイアに到着したのは夜7時。世界最南端の都市はまだまだ車も走っていてお店もほとんど開いています。


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5月17日(月) スタートまでの長い道のり
バスの中から。遮るものがない昇ったばかりの朝日が、異様なほど長いバスの影を作る。

夜行バスに一晩揺られた17日の朝、「あと24時間かぁ」とさすがに溜息が漏れてしまいます。
それもそのはず、アルゼンチンは南北に約3,800kmも伸びる国土を持ち、それは世界で8番目に大きな面積だからです。
余談ですが、人類は昔、南米大陸の南端まで実に50,000kmを移動したとされています。「こんなところをずーっと歩いていったのかなあ」と思うと気が遠くなります。

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5月16日(日) 夜行バスでウシュアイアへ!
一晩をバスで過ごして到着したのはサン・アントニオ・オエステ。
 
飛行機のエコノミークラスのシートよりは格段に楽だとはいえ、同じ姿勢で長時間はさすがに辛い。休憩のたびに外に出ることが欠かせない。

19日に出発に向けた手配が整うよう、着々と準備が進んでいます。
先にスタート地点のウシュアイアへと出発したサポートカーと南米縦断に使用するスクーター「マジェスティ」の動きとは別に、風間隊長とイケは夜行バスでブエノスアイレスから南下します。その行程はなんと2泊3日!
リラックスできるシートとはいえ、バスターミナルで停車するたびに、ここぞとばかりに外へ体を動かします。ブエノスアイレスを離れるにしたがってあたりの景色が荒野と化していきます。


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5月15日(土)ブエノスアイレスでまずは準備
ホテルのロビーではインターネットにアクセスできるものの、接続不良を起こすこともしばしば。
 
夜も更けホテルへ向け歩く風間。

こんにちは。第4弾キャンペーンの南北アメリカ大陸縦断・北ヨーロッパ横断20,000kmでマネージャーを務めるイケです。

日本縦断駅伝が終わったばかりですが、今度は「運動器の10年」最終総会が開催されるルンド(スウェーデン)までの10カ国を駆け抜けるキャンペーンが始まります。
アルゼンチンに入国してから2日目、関係者のみなさんとの調整と、備品購入であっという間に時間が過ぎていきました。

明日は、長距離バスで3,500km南に位置するスタート地点へ向けて出発! 丸2日間バスの中に閉じこもります。

これから4ヶ月間続くレポートにぜひご注目ください。

イケ

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